最新のものが優れているというのは本当か? 〜古代信仰〜

 

”最新の”という謳い文句が浮世に踊っている。

最新のものが優れているというのは本当か?

・「最新」は優れていることの別名か
・紀伊山脈における古いものとの出会い
・時代を超越してきたもの
・新しさは万人万物に与えられる
・古代からの確かな呼びかけ
・自作詩「残存」

・「最新」は優れていることの別名か

広告や宣伝などを見ていると「最近の」という言葉をよく目にする。最新の電化製品、最新の音楽、最新の流行など“新しい”ということは世の中によいものとして受け入れられているようである。人々は最新のものや新しいものは、きっと素晴らしく優れているはずだとすぐに飛びつき、またはそれを取り入れて自分自身の価値を高めようとする。自分自身の存在はなにひとつ変わりはしないのに、新しいということや流行を身にまとい、まるで自分の価値が上がったかのような錯覚を生み出す。そしてその虚栄によって多額の経済は回っている。

しかし、世の中で思われているほど新しいということは価値があるものなのだろうか。もしかしたら新しいということが優れているという定義自体が虚構であり、それを信仰していること自体自らの愚かさを露呈させてはいないだろうか。

 

 

・紀伊山脈における古いものとの出会い

ぼくは最近自分自身の故郷である紀伊山脈を深めるための車中泊の旅に出た。そして紀伊山脈ではたくさんの古いものたちを見た。紀伊山脈の歴史や大自然、文化は非常に奥深く、それは日本という国家が築き上げられるための根源だと言っても過言ではないだろう。

和歌山県田辺市にある日本最古の温泉「湯の峰温泉」、和歌山県白浜温泉にある日本最古の湯船「崎の湯」、三重県熊野市にある日本最古の神社「花の崫神社」、奈良県明日香村にある日本最古の寺院「飛鳥寺」、その中にある日本最古の仏像「飛鳥仏像」など、悠久の歴史をたたえる古いものというものは迫力と見応えがある。

日本最古にして唯一の世界遺産温泉!湯の峰温泉「つぼ湯」へ行ってきた

日本最古の湯船!和歌山県白浜にある「崎の湯」からの海の絶景が最高だった

日本最古の神社!三重県の「花の崫神社」は岩石の聳え立つ厳かな聖域

日本最古の仏像と寺院!奈良県飛鳥寺の仏像で仏教伝来の歴史を偲ぶ

また、そのように堂々とした肩書きがなくても、深山幽谷の紀伊山脈の中にひっそりと佇んでいる、誰ひとり訪れることのない神社にこそ、日本人が心の奥底から信仰している自然の精霊と出会えたような感覚を得ることができる。

 

・時代を超越してきたもの

紀伊山脈の中の古いものと接触しているときには心に尊敬と安らぎが生まれる。それはおそらく、古いものには時を超えるという能力があるということが、目の前の存在自体から明らかになるからだろう。この世の中は諸行無常、常に移り変わっているというのに、その世界のただ中にあって、多少は変わったと言えど残存しているということはどういうことだろうか。

その中には人間に忘れ去られたからこそ残存しているものはひとつもない。それが大規模であろうと、細々としていようと、いずれも人間に大切にされ、受け継がれ、悠久の時を超えて、現在まで生き残ってきたのだろう。それには人間に、この移り変わる世の中において、どうにか変わらないでいてほしいと思わせるような力が重要だ。そして人間たちの側にも、残されるべきその尊い聖域に対する果てしない感受性を携えていないと、それを残存することはできない。

この現在に至るまで、長い年月をかけて残存してきた古いものたちの根源には、おそらく人間の根源にある最も尊い部分と共鳴し、連結するような要素があったことに疑いを持つ必要はない。人間の精神の、まさに紀伊山脈の真ん中のような奥深いところにある、人間にとって最も重要な鉱物の光が必要とするものが、古いものの奥深くには隠されているに違いない。そしてそれこそが、ぼくたち人間が真理を見つけていく上で求めていくべきものなのではないだろうか。

 

・新しさは万人万物に与えられる

それに引き換え、新しいものというのは怪しい。誰もが皆、新しいというものをいいもののように見なしているが、それには紀伊山脈の真ん中にある古いもののように、時代を果てしなく超越する力を持っているとは証明されていないのだ。いや、おそらくほとんどのものが、この浮世の中で時代を超える力を露ほども持たずに、ただ浮世の海の藻屑となって一瞬のうちに消えていくことだろう。

よく考えてみれば、新しいということに尊さを感じる必要はない。それは、新しいということは誰にだって、何にだって実現可能なことだからだ。この世にあるものはすべて、新品になることができた。すべての人間は新品の赤子だった時代があるし、すべての電化製品だって、本だって、音楽だって、発売したばかりの新しい時代があったのだ。誰にでも、何にでも「新品」という称号が手に入るのに、果たしてそれが重要であると言えるのだろうか。

新しく新鮮なものやアイデアは、大抵新しい人間(若者)によって生み出される。しかしその新しい人間だって、時代を超越できる力があるとは限らない。新しい人間による新しい生き方や価値観を、尊いものだと思って自らの根源を見極めない者たちは飛びつくだろうが、彼らが飛びつくものに、本当に価値があるものなんてほとんど存在しないだろう。

既述したように「新しい」ということは、何にだって誰にだって実現可能なことなのだ。その容易さゆえにこの世の中は、新しい新品のものたちであふれている。新品というものに目がくらみ、人々は価値のないものを手に掴まされ、そして戸惑い恐れ嘆く。世の中にあふれる新品たちの中から、時代を超越する能力があるものを見極め、選び取ることは難しい。今はその能力があるように見受けられても、これから先それがそのような推移を歩むのか検討もつかないからだ。とても能力のあるような人に見えても、急に病気になって創造が滞ることだってあり得るだろう。時代を超越するためには、運命の力も必要なのかもしれない。

 

 

・古代からの確かな呼びかけ

最新のものを掴まされ、戸惑い嘆くことよりも、もっと確かなことがある。それを紀伊山脈がぼくに教えてくれた。既に時代を超越してきたものに触れるという行為がそれだ。時代を超越したものに触れる際には、これが本物かどうかを心配し、戸惑う必要はない。目の前のその存在自体が、時代を超える力を持っているということを証明してくれているからだ。ぼくたちは安心して、包み込まれるように安らかに、その古い素朴な聖域に、精神を浸すことができる。

人間の言葉や思想だってそうだ。時代を超えて残る能力があるのか定かではない、実はことごとく偽物であるかもしれない新しい人間(若者)の言葉を聞くよりも、時代を超えて確かに残存してきた老人たちの言葉を聞いた方が、時間の無駄になる可能性は格段に少ない。古いものや人に触れるという時間は、人間にとって確かに必要なものなのかもしれない。

 

 

・自作詩「残存」

人生に勝った栄光も 束の間
人生に負けた悲壮も 束の間

泣いて笑ってそのうちに 勝ちも負けも泥の中

英雄の伝説も 束の間
悪人の伝説も 束の間

移り変わる時の中 同じ話は飽きられる

富んだ悦び 過去の中
貧しき憂いも 過去の中

過去は今の都合次第 思い通りに曲げられる

消えないものは どこにある
残存するのは どこにある

時の流れに砕かれて 些細な記憶は闇の中
時の水に飲み込まれ どんな偉人も霧の中

消えないものは いつにある
残存するのは いつにある

いつかこの地球でさえ 太陽に飲み込まれる日がくる
宇宙の塵にさえなれないくらいに 跡形もなくなる日がくる

~それでも それでも それ以降にも~

消えないものは どこにある
残存するのは どこにある

人にはいったい なにができる
人の手はいったい なにを成し得る

正体の知れぬこころの熱が 道を指し示している

 

 

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