時間は未来へしか進まないというのは本当か? 〜スペイン巡礼は過去へと通じる道〜

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スペイン巡礼は過去へと通じる不思議な道。

時間は未来へしか進まないというのは本当か? 〜スペイン巡礼は過去へと通じる道〜

・時間は未来へと流れていく川
・時間はあらゆる人、あらゆる場所に流れゆく
・スペイン巡礼は過去へと通じる道
・巡礼の道はぼくを幼少期へと帰す
・神聖なものの正体は自分自身の中の少年

・時間は未来へと流れていく川

一般的に時間というものは、過去から現在、未来へと進んでいくとされる。その有様を自分自身の目で見た者はいないにも関わらず、人の世ではそれは川の流れのようにとらえられ、”時の流れ”と表現されることもある。

物理学や数学では、時間tはまるで直線であるかのように描かれる。それが合理的に時間をとらえ、世界の真実を解き明かすために都合のよい形である。科学技術の発達した昨今、時間は”流れ”で且つその流れは”直線”であり、時間はまるでまっすぐに海へと突き進んでいく川のようと見なされがちだ。時間は、過去から現在、未来へとまっすぐに流れていく悠久の川のように思われる。

時間が直線であるというのは本当か?

 

・時間はあらゆる人、あらゆる場所に流れゆく

時間が経てば経つほどに、ぼくたちは時の流れに運ばれて未来へと導かれていくはずだ。それがどんなに嫌なことだろうと、老けるのが悲しかろうと、病んで死ぬのが自分の希望通りでなくても、時間はぼくたちを強制的に未来へと運んでいく。男だろうと女だろうと、年上だろうと年下だろうと、偉大だろうと卑小だろうと、日本人でも外国人でも、善人だろうと悪人だろうと、時間はぼくたちを平等に根こそぎさらい、みんなまとめて未来の世界へと連れていく。

時の流れからは、どこにいたとしても逃げられない。たとえ日本を脱出してアフリカへ行ったってインドへ行ったって、自分が老けて未来の世界へ運ばれる運命から逃れることはできない。旅人が未来へと進むのが嫌だと駄々をこね、どこか遠くの世界へと逃げるように旅立ってしまっても、時間は後から後から彼を追いかけ、津波のように彼は時間の渦に飲み込まれてしまう。世界広しといえど、未来へと向かう時の流れの川から逃げられる場所などひとつとしてないようだ。

当たり前のようにぼくはずっとそう思っていた。しかしぼくは今までで唯一、世界の中で、過去へと通じる不思議な道を発見した。それが、スペイン巡礼、星の巡礼、カミーノの道だった。

 

 

・スペイン巡礼は過去へと通じる道

スペイン巡礼が過去へと通じる道だなんて、出発前は思いもしなかった。ただひたすらに800kmを歩くだけという、空間的な道だと思っていた。キリスト教の聖地サンティアゴへと通じる神聖なキリスト教の道だというが、そんなのは伝説で、道は道だ。ただの北スペインの田舎道を歩くという以外に特徴などないと思い込んでいた。

それはとても不思議な経験だった。ぼくは友人のてらちゃんとふたりでスペイン巡礼の道を歩いていた。800kmも一緒に歩いていると、いくら話題が豊富であっても最近の話題だけでは話も尽きてくる。ぼくは自然と自分の過去の話をするようになった。最初は普段から意識しているような自分の昔話を語っていたが、次第に普段は思い出しもしないような、すっかり忘れ去っていた遠い昔の記憶まで蘇り、それについてスペイン巡礼の道の途上で話すことも多くなった。ぼくはなんだか自分自身が、過去に置き去りにしてしまったのに自分自身にとってとても重要だった物事について、記憶の落し物を拾い集めるようにして巡礼の道を歩いていた。それはとても不思議な感覚だった。

たとえばそれは、小学校1年生の道徳の時間にNHK教育の「パンをふんだ娘」というものすごく衝撃的で恐ろしい物語があったことや、幼少期に「ユニコ」という手塚治虫のアニメ映画を見て自分の理想の形が見えたこと、2歳の時に妹ができて衝撃的で絶望した思い出、さらには自分自身の最古の記憶まで遡り、てらちゃんに語って聞かせた。まるで脳内の片隅に隠されていた自分自身を形成している過去の物事が、ポロポロと欠片のように落ちてきてそれをかき集めているような感覚だ。それに呼応しててらちゃんも、自分の幼少期の話や家族の衝撃的な話、授業でやった「魔王」が印象深かったことなどを語っていた。

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・巡礼の道はぼくを幼少期へと帰す

自分を形成した需要な昔話を次々に披露しているうちに、まるで自分自身も幼少期に帰ったような感覚になってきた。これは心理学的に言えば退行と呼ばれる現象なのかもしれない。なんだかてらちゃんに対しては自分が大人のような振る舞いをすることが次第に馬鹿馬鹿しく思え、アリシア地方ではタコを見ても「ぼくはタコを食べたい」と大人らしく言わずに、物欲しそうな子供のようにただ「タコ…」と言うだけの存在になってしまった。

ぼくが少年から大人になったのはどうしてだろうか。それは、少年だったぼくをすっかり過去の中に置き去りにして、過去の川の中に捨てたから大人になったのだろうか。いや、ぼくは自分の中に少年を残したまま、その上から無理矢理、常識や謙遜や大人らしい振る舞いなどの不純物を塗りつけたからこそ、ぼくは大人になったのだ。それはどのような人にとっても、大人になるという現象はそのようだろう。そしてぼくが幼少期に帰るということは、その不純物を上からコテのようなもので剥がして落としてしまっただけにすぎないのだ。

 

 

・神聖なものの正体は自分自身の中の少年

スペイン巡礼、カミーノの最終目的地の聖地・サンティアゴに近づくにしたがって、ぼくはその不純物が取り除かれ純粋な少年に帰っていくことを感じていた。そして聖地とは、自分自身の根源へと近づいていくことなのだと悟った。スペイン巡礼の道とは、自分自身のこびりついた不純物を取り除くための道、少年へと帰っていく道だった。自分の中にいまだ住む、純粋な少年という宝物に出会うための旅だった。

神聖なるものというものは、人によって異なる。サンティアゴという聖地に向かう人々の中には、聖人や歴史や伝説を敬い、キリスト教という観点から神聖なものを追い求めている人々も多いだろう。しかしぼくがスペイン巡礼で見つけた神聖なものとは、自分自身の中に住む少年の姿だった。時間は過去から現在、未来へと流れるが、少年はいつまで経っても年を取っていなかった。時間の流れに押し流され、生老病死の苦の中に押し込められることもなかった。少年は時間を超越し、ぼく自身の根源として、これからもこの人生において真実を語り続けてくれるだろう。ぼくはそれを聞く耳を育まなければならないと誓った。

 

 

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