外国では他人を信用してはいけないというのは本当か? 〜異国にて疑いを解き放て〜

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ぼくたち島国の日本人は外国というものをすごく警戒している。そして異国を旅行するときには、可能な限り気をつけるように教わる。

外国では他人を信用してはいけないというのは本当か? 〜異国にて疑いを解き放て〜

・悪質な外国
・ドイツのおじさん
・バリ島の犬
・疑えばきりがない
・ルンビニのコーヒー
・与えること受け取ること
・人間好きになりたいために

・悪質な外国

ぼくたちは異国を旅行するとき、外国は怖いところだから可能な限り気をつけるように教わる。嘘つきにだまされないように、泥棒にものを盗まれないように、詐欺師に金を巻き上げられないように、最大限注意を払うように促される。

日本人に対するたくさんの悪質な手口も様々に紹介されている。たとえばヨーロッパでは通りすがりにケチャップをかけられ、それを親切そうに拭き取ろうとすることで財布を盗まれるとか、インドでは優しさでチャイをごちそうしてくれるように見せかけてそのチャイには睡眠薬が混ぜられており、眠った後ですべて身ぐるみ剥がされるなど、被害の経験談は枚挙にいとまがない。

 

 

・ドイツのおじさん

「外国は怖い」と教え込まれたぼくたちはなにかと外国の人を疑うようになってしまう。たとえばぼくはドイツのクリスマスマーケットを巡っていた際に、ドイツのニュルンベルクで教会の写真を撮っていると、通りすがりのドイツ人のおじさんに話しかけられた。ドイツ人のおじさんは、教会とぼくの写真を一緒に撮ってあげようかと言ってくれているようだった。

しかしぼくは何かのテレビで、ヨーロッパの街でこのように親切に写真を撮ってあげようかと提案してカメラを手にした後、そのままカメラを持って逃げてしまって結局カメラを盗まれたという場面を見たことがあったので、おじさんを疑い「ありがとう、でも大丈夫です」と言ってしまった。

今から考えれば治安のいいドイツでそんなこと滅多に起こらないだろうし、そのおじさんもきっと善意でぼくに話しかけてくれたにもかかわらず、ぼくはおじさんを悪い人かもしれないと疑いおじさんの優しい慈しみの心を遠ざけてしまった。そのときはヨーロッパの街での善悪の加減がよくわからなかったのだ。しかし自分の所有物を守ろうと物質に執着するあまりに人の慈悲をないがしろにするとは愚かな行為だったのではないだろうか。

 

・バリ島の犬

そしてこの自分自身を守ろうとするあまりに心を遠ざけてしまうというのは何も人間に対してだけ起こるものではない。たとえばバリ島での話だ。

バリ島は物価も安いし人々も善良で優しいし気候もいいし、まるでパラダイスみたいなところなのだが、ひとつだけどうしてもおそろしいことがあった。犬だ。バリ島にはそこら中に野良犬がうようよしているのだ。バリ島の人によると、犬はバリ島の人にとって家を守ってくれる大事な存在だということだ。それはわかるし日本でもそうだが、日本では大抵紐で繋がれているのに対して、バリ島ではすべて放し飼いにされている。それは犬の自由と尊厳を大切にしている姿勢ということなのだろうか。

バリ島の犬は昼間はぐうたら寝ているからいいものの、夜になるとさあ俺たちの時間だぞといわんばかりに活発に活動しまくる。バリ島の田舎が神様やお寺ばかりで素敵だからと歩いているとそこら中から犬が出現しわんわんと吠えたてられる。ぼくは犬を飼ったことがないので、犬がどういう時に吠えるのかとか、どういう時に噛まれたり攻撃されたりするのかまったく不明だったため非常に恐ろしかった。日本では万が一犬に噛まれても傷の消毒だけで済むかもしれないが、このような地域では狂犬病という死に至る恐ろしい病気がある可能性もあるのだ。ぼくは犬に吠えられると噛まれるのかもしれないと思い命の危険を感じて非常にこわかった。そして夜にバリ島を歩くのは危険だと悟った。

宿に帰ってからは犬のことについて調べまくった。どうすれば犬に襲われないのか、犬が吠え立てるのはどういう意味があるのか、さらには最悪の事態に備えて犬が襲ってきたときはどうすれば退治できるのかそしてどのように自分の身を守るのかなども読み漁った。しかし犬という獣にやはり絶対的な対処法はないらしく、どれだけ調べてもなんだか頼りない。最も最善の方法は犬に近づかないことだろうという結論に達した。

それからというもの、大人しそうな犬でもなるべく近寄らないようにした。ある日ウブドの田舎の方を歩いていると、可愛い犬がとことこ近寄ってきた。なんだか構ってほしそうな遊んでほしそうな雰囲気である。しかしその時ぼくは既に脳内で「犬=近寄らない」という法則を組み立てていたため、その犬を適当にあしらい遠ざけた。その時の犬のさみしそうな顔つきを今でも覚えている。

犬にだっていろいろな犬がいるのだろう。攻撃的な犬、噛みつき大もいるだろうが、本当に心から人と交流したい犬、甘えたい犬、遊びたい犬もいるのではないだろうか。しかしぼくは愚かな人間なのでその区別がつかない。区別がつかないから、自分の命を守るためには、すべての犬を噛み付く犬と見なし遠ざけるしか方法がなかったのだ。

しかしこれもあまりにも愚かなことではあるまいか。これも先ほどの人間の例と同様、外国ではどんな悪さをされるかわからないからなるべくすべての人を疑い、そして疑わしきものはすべて遠ざけるべきだという異国での行動に類似している。どの犬が人間に噛み付こうと企んでいるかわからない。途上国で噛み付かれたら狂犬病になり死に至ることもある。たとえ死に至らなくても、噛み付かれたら外国の病院に行き、ワクチンを計3回打たなければならなくなるし、お金も時間も非常に無駄だ。合理的な考えから言っても、すべての犬を疑い遠ざけるしかあるまい。犬という人間ではない獣の気持ちを読み取る術などないのだから。どの犬が遊んで欲しくてどの犬が攻撃したいのか、完全に人間にはわからないのだから。

 

・疑えばきりがない

弱いものは悲しい。牙も毒も鋭い爪も何もない。攻撃できるものは何もないから、弱い自分を守らなければならない。守ろうとするばかりに、自分を可愛がるあまりに、他のものを疑い、善良なものさえ憎み遠ざけようとする。もしかしたら騙そうとしているのかもしれない、もしかしたら盗もうとしているのかもしれない、もしかしたら噛み付こうとしているのかもしれない。

この世では疑い出せばきりがない。どこまでもどこまでも愚かな暗い海のように疑いは広がる。自分の物質をなくさないように、自分の命を守るように、頑張れば頑張るほどに、あらゆる人や動物さえ自分を攻撃する敵に見えてくる。もしかしたら敵ではないのかもしれない。そんなことはわかりきっている。でも。敵ではないと100パーセントは言えない。その可能性を否定できないそれならば、いっそすべての人を敵だと見なして行動した方が、合理的だし安全だ。自分の物質に執着し、自分の生命に執着し、合理的に生きることで、なるべく安全な場所に浸ることで、誰ひとりとして信じられなくなる。誰ひとりとして敵でないものはいなくなる。

そんな風に誰かを疑うためだけにこの生命は生まれたのだろうか。そんな風に敵だと思うやつらと騙し合うためだけに生命は営まれていくのだろうか。人の心とはそれほどまでに信じ難いものだろうか、人の心の慈悲とはそれほどまでに疑い深いものだろうか。「気をつけなさい」「警戒しなさい」。そのようにお母さんやおばあちゃんに諭されるごとに、人の心をなくしていく気がする。もちろん彼女たちだって愛情を持ってぼくに忠告してくれているのだが、果たして血縁の言及はいつでも正しいのだろうか。

 

 

・ルンビニのコーヒー

実はぼくはネパールにあるブッダの生誕地、ルンビニで見知らぬ通りすがりのおばちゃんにコーヒーをいただいたことがあった。ぼくは上記のインドでの睡眠薬被害の経験談をまったく読んだことがなかったので、何の疑いもせずに優しいおばちゃんがわざわざ淹れてくれたコーヒーをいただいたのだ。結局それは普通に善意からのものであり何の被害もなく逆にとてもいい思い出だったのだが、それを後でインドを旅慣れた人に話すと、上記のような被害があるからこれからはしない方がいいだろうと諭された。万が一コーヒーに睡眠薬が混ぜられていたらすべてを失ったかもしれないのだ。

しかしぼくは思った。そのような悪意に満ちた被害を知らなかったからこそ、ぼくは彼女からコーヒーを受け取ることができたのだ。そしてそれは本当に善意からのもので、コーヒーはおいしかったし心からの交流を果たすことができた。もしもぼくがそのような悪質な行為の体験談を知っていたら、ぼくは彼女を疑い、コーヒーを受け取らなかっただろう。そして本当は慈悲に満ち満ちた彼女の与えを踏みにじったことになるだろう。自分自身の金銭をあまりに守りすぎるがために、あまりに異国の人々を疑ってかかり旅を継ぐことに果たして意味はあるのだろうか。

人から受け取るということは確実に危険を増やす。しかし確実に人の優しさ、慈悲の心に触れる機会も増やすことになるのだ。ぼくたちにはその加減がわからない。どの人が悪い人でどの人が善人か、愚かであるから完全には区別できない。顔をどんなに覗き込んでも、声をどんなに聞き探っても、確かな答えは見つからない。合理的に小賢しく、すべてを受け取らないと決めてしまうのは簡単だ。しかしそのような精神は慈悲あふれるこの大地の中でひとつの恵みさえ受け取らずに、朽ちてただ乾いた土となることだろう。

 

 

・与えること受け取ること

与えるということは難しい。受け取るということも困難だ。

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・人間好きになりたいために

もちろん誰だって外国で悪意の標的になんかなりたくはない。その思いが強すぎるあまりに、心は疑いという闇で満たされ、確実なものしか信じられなくなる。しかし怪しくない与えといえば、ぼくたちがお金を支払ったときに与えられる与えだけではないか。その他の与えが、お金の絡まない与えが、本来人にとっての真実の与えであるはずなのに、それをことごとく疑い怪しいとはねのけてしまっては、旅する甲斐、もしくは生きる甲斐すらなくなってしまうのではないか。

そこまでして自分が守りたいものはなんだろう。自分の物質、自分の健康や生命、損なんか絶対にしたくないという構え、まんまと騙されたたくないというプライド。それらを失くすことと、それらを守れる可能性のある代わりに人間本来の慈悲の心に触れる機会をことごとく遠ざけてしまうことと、どちらが本来の人間の精神にとっての損失なのだろうか。

与えるということは難しい。受け取るということも困難だ。本当はまったく難しくないそれらのことが困難になる人間の世の複雑さこそ、ぼくたちにとっての愚かしく大きな課題だ。だからこそぼくたちの旅路は続く。答えの出ない世界の中で、それでも人間を好きになれるように、どうか人の心に触れられるようにと。

 

 

 

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