他人の気持ちがわからない、理解できないことは悪いことだというのは本当か?

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他人の心は、自分の心のただの反映。

他人の気持ちがわからない、理解できないことは悪いことだというのは本当か?

・他人の気持ちを理解することは、人間同士のコミュニケーションにおいて重要な能力だ
・他人の気持ちがわからない、理解できないのは当たり前のことだ
・他人の心を推測するためには、自分の心を頼りにするしかない
・自分の心と他人の心は決して同じではなく、他人の心を勘違いする場面は多い
・自分の心を追求すれば他人の心の機微に触れられる可能性は高まる

・他人の気持ちを理解することは、人間同士のコミュニケーションにおいて重要な能力だ

ぼくたちは人間社会を生きる上において、他人の気持ちを察したり、理解しなければならないと教えられる。確かに他人の気持ちをわかったり、理解するというのは人間同士の円滑なコミュニケーションを行うために欠かせない重要な能力だ。目の前にいる相手が何を思っているのか、何を感じているのか、ある程度察知しないことには会話や交流が成り立たない。それゆえに他人の気持ちをわからないければならない、理解しなければならないという主張は、至極真っ当なもののように思える。

 

 

・他人の気持ちがわからない、理解できないのは当たり前のことだ

しかし当然のことだが、ぼくたちがきちんと明確に感じることのできる気持ちというのは「自分の気持ち」ただひとつのみである。その他の人々の気持ちは”推測”や”想像”することはできても、はっきりと確実に感受することはできない。その理由は簡単で、ぼくたちはその人ではないからである。

ぼくという人間は、ぼくの肉体をひとつと、ぼくの心をひとつだけ任された存在だ。それ以外の人間のことは預かり知ってはいない。全くの管轄外である。他人に関して言えば、太郎さんという人間は、太郎さんの肉体をひとつと、太郎さんの心をひとつ担っていることだろう。花子さんならば、花子さんの肉体をひとつと、花子さんの心をひとつ任されている。誰もがそれぞれ、ひとりの人間にあたり、ひとつの肉体と、ひとつの心を与えられたのであり、逆に言えばそれ以外の肉体と、それ以外のことなど一切任されてはいない。

自分以外の肉体のことや、自分以外の心のことは、”推測”や”想像”くらいはできるものの、きちんとはっきりと十分に感知することは当然ならば不可能である。例えば自分の右手が怪我すればその痛みをはっきりと感じ取ることができるが、他人の右手が怪我をしてもその痛みをしっかりと認識することなどできない。なぜならそれは他人の肉体だからである。それは肉体に限らず、心に関しても同様だ。

そもそもぼくたちは、自分自身の気持ちでさえわからないことがよくある。自分の心が悲しんでいるのか、自分の心が苦しんでいるのか、自分の心が迷っているのか、自分の心が何をしたいのか、自分自身でさえ理解することが困難な場合もある。それなのに自分の管轄外の他人のことなんて、わかるはずがないのではないだろうか。

世の中の人々は常に、他人の気持ちをわからないければならない、理解しなければならないと主著する。そのように主張している人間は当然、自分が他人の気持ちを理解できていると思い込んでいるのだろう。しかしそれは傲慢な思い込みである。自分の気持ちさえわかることが困難なのに、他人のことなんてわかり、理解できるはずがないのである。

 

・他人の心を推測するためには、自分の心を頼りにするしかない

ぼくたちは自分が自分であるがゆえに、自分にとっては管轄外の他人の気持ちや心を、一切直接的には感受できないように作られている。しかしぼくたちは他人の気持ちや心をある程度はわかり、理解できたような気分になることができる。ではどうやって自分にとっては全くの管轄外の他人の気持ちや心を”推測”や”想像”できているのだろうか。そのためには自分が直接感受できるもの、すなわち自分の気持ちや心を反映させる他に方法はない。

ぼくたちは他人がこう思っているだろ、他人がこう感じているだろうと推測するときに、自分自身がこういう場合こう思うだろう、こう感じるだろうという経験を基準としている。自分がはっきりと認識し、自分がはっきりと理解できるのは、自分の心しかないわけだから、他人の心を推測するためにも、自分の心を拠り所とするしかないわけである。

例外として他人があからさまなリアクションを残した場合には、他人の様子から他人の感情を推測することは可能だろう。例えば花子さんがゴキブリを見て「ギャー!!!!!」と逃げ回っているのなら、あぁ花子さんはゴキブリが怖いと感じているのだなぁと推測することは簡単に可能である。しかしそうではない場合には、あからさまな他人のリアクションが見受けられない場合には、他人の気持ちは自分の気持ちを頼りとして推測するしかない。

例えば他人がリンゴをもらったのを見たときに、自分がリンゴを好きな人だったなら、あぁこの人はリンゴをもらってきっと嬉しいのだろうなぁと自然と想像してしまうことだろう。しかしリンゴをもらったその他人は、あまりリンゴが好きではないかもしれない。例えば他人が恋人と別れたことを聞いたときに、過去にひどい失恋をして悲しかった経験のある人ならば、きっとその人は恋人と別れてものすごく嘆き悲しんでいるに違いないだろうと推測してしまう。しかし実際は、その人は鬱陶しかった恋人をフってあっけらかんとしているかもしれないのだ。

 

 

・自分の心と他人の心は決して同じではなく、他人の心を勘違いする場面は多い

このように自分の気持ちを基準として他人の気持ちを推測してしまうと、トンチンカンな勘違いが生じることもしばしばである。自分と他人は全く異なる人間だということを忘れて、同じ人間ならば自分と同じように感じるに違いないと思い込み、信じ込み、他人の思いを勝手に推測しては、とんでもない勘違いをしでかし、しばしば相手を困惑させてしまうのだ。

しかしそれは仕方のない現象であると言える。誰だって確かな心や気持ちというものを感じることができるのは、ただ自分自身のものだけだからだ。誰だって他人の心や気持ちを直接感じ取る能力を持っておらず、ただ想像するしかなく、ただ推測するしかなく、その際にはたったひとつ自分が直接感受できる唯一の心、自分の心だけをあてにするのはごく自然な成り行きだ。

わかりやすく単純な場面の他人の心なら、これまでの人間関係の中での他人との交流から簡単に推測できる場面もあるものの、人間の心の繊細で深遠な部分に関わってくる感情であればあるほど、ぼくたちは自分自身の心や気持ちや経験から他人というものを想像せざるを得ない場面が多くなる。そこで自分の人生経験が浅はかだったり、自分が自分ときちんと向き合ってこなかったりすると、ただでさえわかりにくい他人の心に関して盛大に勘違いをし、とんでもない思い込みを発揮し、しかもそれを正しい推測として突き進んでしまうともはやどうしようもない人間だと呆れられてしまう。

 

 

・自分の心を追求すれば他人の心の機微に触れられる可能性は高まる

自分自身としっかりと向き合い、自分の心を知ろうと必死になって生きていくことは重要だ。それは燃え盛るように生きたときに、自分自身の人生を切り開くときに役立つということはもちろんながら、別の側面から言えば、自分の繊細な心の機微を分析しておくことや、深遠で届きにくい自分の気持ちの色彩を把握しておくことは、他人の普遍的で敏感で神聖な心の奥深くの部分を適切に察知し、思いやりや慈悲の心を与える際に少なからず役立つからだ。

究極的には自分の役に立つはずの、自分の深遠な心を観察することが、回り回って、円環を描いて、他人に慈悲を与える際に役立つようになるというのは、矛盾しているようで美しい真理である。

他人の心がわからないことは当たり前のことだ。なぜなら他人の心なんて、自分からすれば管轄外だからだ。他人の心の敏感な部分は、究極的には自分の心や感情や経験から推測する他はなく、自分を頼りとして他人の心を想像するのだから的外れになったり、トンチンカンになっても仕方のないことである。それは自分と他人は、別の生き物だからである。しかしあなたの人生においても、なぜかこの人とは心が繋がっているような気がする、この人は自分の気持ちをわかってくれているような気がするという人に巡り会うことがあるだろう。その人はおそらく、怠ることなく、必死に、真剣に、悲しみの中を、自分と対峙しながら生きてきたのだろう。だから他人の心の深淵にも自然と触れてしまうのだろう。

 

 

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