勉強がイヤなものだというのは本当か? 〜勉強嫌いののび太くん〜

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ぼくたちが小さい頃、テレビでドラえもんを見ていると、のび太くんが宿題がイヤだテストがイヤだと泣いている場面を多々目撃した。

勉強がイヤなものだというのは本当か?

・勉強嫌いののび太くん
・なんて楽な勉強
・勉強は貴族の遊び
・勉強は世界を知ることに他ならない
・学びと遊びは同じ言葉

・勉強嫌いののび太くん

そんなのび太くんの様子をテレビで見て、まだ小学校にも入らない年齢の子供たちが、勉強というものはまだやったことがないが、何かのび太くんが泣くくらい不吉なもの、イヤなものだとはなから思い込んでしまうのではないだろうかと気がかりだった。そしてそれが、子供たちの勉強に対する見方に少なからず影響するのではないかと思うのだ。

小学校に入る前から、勉強はイヤなもの、楽しくないものと最初から決め付けてしまって、その思いを引き続き大人になるまで背負ってしまったとするならば、なんて不幸なことだろうと思う。もちろん聡明な子供はそのように容易に流されるものではないだろうが、そうでない殆どの子供たちはどうだろうか。

 

 

・なんて楽な勉強

勉強というものは本来楽しいものであるとぼくは常に感じていた。それ故に勉強を苦だと感じたこともないし、むしろなんて楽なものだろうとさえ思っていた。

学校の勉強なんて答えが出るからとても楽で安易なものだ。それよりももっと大きな、困難な、運命から来るどうしようもない根源的な受難という問題にどのように対応すればいいのだろうかと、それを思考することの方が大変だった。なぜならそれは、答えの出ない問題だからだ。

勉強がイヤだとか、大変だとか言っている周囲の友人たちは、そのような人生の問題にあまり気がついていないだけだろうと感じていた。

 

・勉強は貴族の遊び

ぼくが印象的だった文章に、勉強は本来白人の貴族の遊びだったというものがある。白人たちは黒人を奴隷にできたので自分たちは暇だったから、その暇つぶしになにかを調べたり研究したりすることができ、それが勉強に繋がったということだった。

そう考えればぼくたちは誰もが幼い頃から勉強という貴族の遊びをすることができ、なんて贅沢な事だろうと思ったものだ。

小さな頃から奴隷として働かされ、学ぶ機会を持たないで大人になってしまうよりも、その方がちょっとは楽しいのではあるまいか。どうせ大人になったら奴隷のように働かされることがほとんどの人々の運命ならば、それまでに学びを得ることも幸福で興味深い道だろう。

 

 

・勉強は世界を知ることに他ならない

「勉強」という名前で呼ぶとなんだか堅苦しくでイヤな印象が残るが、勉強ということは世界を知ることだ。自分の生きている世界を知ることが、どうして楽しくないわけがあるだろうか。

たとえばぼくたちは知らず知らずのうちに日本語という言語を話している。しかしその言語がどのような仕組みで働いているかを知ることはできない。それを分析してまとめた人がいて、それを国語の文法の授業で学ぶことができるなんて感動的だった。自分が何が何だかわからないで使っていた日本語というものは、このような仕組みで成り立っていたのかと、まるで自分の顔を見たことのない人が初めて鏡を見た時のような衝撃で感度したものだ。

自転車で走ることだってそうだ。高いところから自転車で駆け下りる時には、低いところから駆け下りる時よりもどうして速い速度が出るのかということを、物理学のエネルギーの観点から説明してくれると、興味深く面白い。

百人一首の授業も中学1年生で習ったときなんかには、その情緒があまりわからなかったが、いろいろな経験を積んでいくと、百人一首に刻み込まれた古来の日本人の人々の気持ちがしみじみと心に染み渡ってきて心地よい。結局人間なんて大切なところは何ひとつ進歩していないのだ。それゆえに何百年前の人々の作った詩にひどく感動することができる。これは日本がずっと日本であり、変わらず同じ言語、同じ文字を使ってきたからこそ得られる感動であり、そのような古い国家に生きていることにも感謝できるというものだ。

 

 

・学びと遊びは同じ言葉

そう考えてみればこの世界のすべては勉強だ。勉強でないものなんてありはしない。なぜならすべては、この世界を知ることに他ならないからだ。

よく勉強の対義語として「遊び」という言葉を持ち出している人々がいるが、なんて曇った瞳を持ち合わせているのだろうと感じてしまう。遊ぶことだって学びで、学びだって遊ぶことであり、そこには境界線などありはしない。それなのに勉強はなんだかイヤで避けるべきもの、遊びは楽しく得るべきものだと決めつけ、たまには勉強を休んで遊びを経験することも大切だなどと嘯く者もいるが、勉強はこの世で最も面白い遊びであり、遊ぶということこそ学びだと知ることができない限りは、生きるということの本来の楽しさを享受することは難しいのではあるまいか。

幼い頃からの洗脳から解き放たれ、本来享受すべき知るという楽しさを取り戻す時は、まさに今かもしれない。

 

 

 

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