少年の歌が聞こえる。
自分は特別な存在だと感じるのは悪いことだというのは本当か?
・少年という万能感
・少年と大人
・少年という宝石
・誰もが自分は特別な存在
・少年という万能感
人は幼いころ、万能感を帯びている。小さな少年や少女は、自分を世界の中心だと思い込み、なんでもできるような気さえして、堂々と胸をはってこの世界に参入してくる。そこにはおそれもなく、憂いもなく、ただ世界に向かっての全面的な潔さがあるだけである。自分を愛することができているし、自分が愛されるべきだとわきまえているし、与えられるべき存在だとただむやみに信じている。
けれど人は大人になってくると、実はなにもできないかもしれないことに気がつく。自分は万能なんかじゃなく、無力なのだと知らず知らずのうちに思い知らされる。そして自分が世界の中心でないことを把握する。自分は特別な人間なんじゃないと思い込む。
大人になって、自分を愛していることはマズいことらしい。自分を好きですなんて言った暁には、この国の人々は即座に攻撃を開始してその自己愛を叩きのめし、いびつな心の地面を平坦な荒野へと帰そうと努力する。
大人になって、自分が特別だと思い込むことは異常なことらしい。自分が全く特別な存在ではないと気づくことが成熟したという証であり、それを捨てきれないような人間は、おかしな病気にかかっているようなものであり、すぐに治療しそれを正すべきだと主張する。
しかし自分を愛し、万能感にあふれ、自分を特別だと見なしながら潔く生き抜いていく少年の魂と、自分を否定し、無力感に苛まれ、自分が特別なんかじゃないただの世界の一部品に過ぎないのだと思いながら浮世を渡ってゆく大人の魂と、果たしてどちらが真実の人間の姿なのだろうか。
・少年と大人
ほとんどの人々は世間知らずのあどけない子供の意見よりも、ある程度この時代を生きてきた大人の考えの方が正しいに決まっているのではないかと思い込む。けれどこれは本当だろうか。年上の方が年下よりも偉大で、正しいというのは実はとんでもない偏見ではないだろうか。それは本当に自分の思考で考え抜いた結果として出された結論なのだろうか。どこか遠い昔から洗脳されている儒教的な考えに依存してはいないだろうか。
ぼくは3歳の子供であろうが50歳の大人であろうが、どちらからも学び取るものは確かにあり、どちらもぼくの偉大な先生であり、どちらも全くの平等であり、どちらが正しいとか上であるなどとは考えることができない。3歳の無意識で潜在的な行動を眺めながら、人間本来の姿を悟ることも可能だし、50歳のおじさんの苦労話を聞くことも、世の中を効率的に渡っていくための示唆になるだろう。どちらも人間にとって重要な素材であり、どちらが上とか下とか裁くべきではないのだ。
しかしこの国では儒教的思想の支配が強いゆえに、例えば3歳と50歳とでは、その数字のみを確認したのちに、50歳の人の言うことの方が正しく、50歳の人からの方がはるかに学ぶものが大きいと考える人たちであふれている。ぼくもこの国の民族の一員であるにもかかわらず、この思考停止した思い込みの激しい考え方に幼い頃から違和感を覚え続け、そして大人になった今なおその違和感はなくなるどころか膨張する一方である。
激しい偏見と思考停止の儒のヒエラルキーの中で、果たして人間が生きていくための真実が見つかるだろうか。ぼくには見つかるとは到底思えない。それはただ人の世の中をうまく渡っていくためのせせこましく小賢しい道具に過ぎず、生きていく上での真理を見出そうとする原動力を少しも感じさせない。
・少年という宝石
はっきりしていることがある。それは、少年の中には具体的な大人は住んでいないが、大人の中にはかけがえのない少年が住んでいるということだ。
時間というものは、過去から未来へと流れていくらしい。ぼくたちが明日という日を手に入れることができるのは、昨日という日を綺麗さっぱり潔く捨て去ったことの代償だろうか。少年という過去を捨て去るからこそ、その代わりとして大人になる時間は与えられるのだろうか。
いや、ぼくたちは決して過去を捨てたりしない。過去を捨てないままで、少年を捨てないままで、大切に大切に密かに抱え込んだままで、それを土台として大人になってゆく。過去を捨て去るから代わりに未来が訪れるんじゃない。未来という時間は、過去の蓄積の先端に尖った”イマ”の瞬間の別名だ。
このイマという時間が過去をはらんでいる限り、ぼくたちはどんなに大人になろうとも、自分の中から少年という存在を取り消すことはできない。ぼくたちは知らず知らずに同居している。大人たちは無邪気でものを知らない少年時代を綺麗さっぱり捨て去って、大人の世界へと手ぶらで参加してきたような顔をしているけれど、本当は誰だって心の奥底に大切に隠し持っている。かつての自分の姿としての、少年という宝石を。
・誰もが自分は特別な存在
ぼくたちは誰だって、自分の中に少年を隠し持つ。自分を愛して止まない、なんでもできると信じ込んでいる、自分を特別だと思い込む、可愛らしい無邪気な少年の姿を潜めている。そんなものをまだ捨てられずにいるなんて浮世の者たちにバレたなら、人間失格の烙印を押されるような気がして、仲間外れにされそうな気がして、同じように誰もが少年を奥底に隠している。
けれど思い出してくれ。少年を自分の中から消し去ったならぼくたちはこの世から消滅してしまう。少年はぼくたちの根源なのだ。ぼくたちをこの世界に立たせている確かな根だ。それなしにぼくたちは生きられないし、存在することすらできない。この世界に生き、存在している全ての大人たちは、誰もが少年を隠し持っているからこそ消えずに生きていられるのだ。だからもう恐れることはない、怯えることもない。
「自分を愛することなんておかしい」「自分を特別な人間だと思うなんて異常だ」周りに合わせて何も思考せず偉そうにそう発言するあいつの目の奥には、確かに少年が眠っている。自分を清らかに深く愛し、万能感にあふれ、自分を特別な人間だと思って止まないあどけない少年の姿だ。その少年がいるからこそ、あいつの存在はこの世界で壊れることなく保たれているのだ。そしてそのあいつとは、全ての人間の別名である。
自分を特別だと思うのは当然のことだ。この世では、ぼくとあなたしかいない。そして世界を感知し、受け止め、取り込み、そして世界へ向かって創造できるのは、ぼくにとっては「ぼく」という存在しかいないのだ。ぼくがぼくを大切にするのは当然で、ぼくにはぼくが尊く特別な存在だ。そして全ての人間にとって、自分自身がかけがえのないたったひとりの特別な人間であるに違いない。
周囲の声に惑わされて、自分自身の尊さを手放してしまった者たちよ。それゆえに自らを苛み、生きることのおぼつかなくなっている者たちよ。おかしな洗脳を退いて、ぼくたちは少年に優しく歌を歌ってあげよう。自分が自分に歌う歌ほど、人にとって必要なものはないのだから。