喧嘩をしたことがない人は素晴らしいというのは本当か?

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喧嘩をしたことがない人は素晴らしいというのは本当か?

・喧嘩をしたことがない人は素晴らしいというのは本当か?
・喧嘩や争いの原点は、幼少期の兄弟喧嘩にある
・争いや喧嘩は、調和の母である
・喧嘩をしたことがない人は、他人との距離感を把握できずに悩む傾向にある

・喧嘩をしたことがない人は素晴らしいというのは本当か?

人間の社会では多種多様な意見が主張されているが、その中でも最も規模が大きくありがちなのは「戦争反対」という主張だろう。これは第二次世界大戦において日本が敗戦となり日本人が大変な目に遭った記憶やトラウマがまだ残っているからなのか、敗戦後の教育でそのような思想を持つようにコントロールされたからなのか、人々は自発的に戦争に反対する性質を持つ傾向にあるからなのかは定かではないが、とにかく「戦争反対」という主張は世の中や現代の日本のおいて絶対的に正しいとされる意見のひとつだろう。

国家という幻想に惑わされ、無差別に罪もない人々を殺戮していく戦争が残酷な行為だということは確かに本当だろう。しかし「戦争反対」という絶対的な正しさに共鳴するようにして、日常生活で「人と争わない」「人とぶつからない」「人と喧嘩をしない」ことも清く正しく素晴らしいことのように世の中では思われがちとなるが、果たして人と争わないということは本当に素晴らしいことなのだろうか。

 

 

・喧嘩や争いの原点は、幼少期の兄弟喧嘩にある

ぼくが生きてきた中でも「人生で喧嘩したことがない」「人と争ったことがない」という人にたまに出会うことがある。普通に道徳的に、もしくは教育的には人生で喧嘩をしたことがないなんて素晴らしいと思われがちとなりそうだが、ぼくの意見では人生で喧嘩をしたり争ったこともないのにちゃんとした大人に成長できるのだろうかと疑問に感じる。

人生の中で他人と喧嘩したり、争ったりするという経験の始まりは、大抵の場合幼少期の兄弟喧嘩が主張な要素となってくるだろう。年の近い兄弟と喧嘩をしたりぶつかったりすることによって、人間は喧嘩という現象に巻き込まれていく。この幼少期の喧嘩というのは、子供の成長や人格形成に重要な影響をもたらすのではないだろうか。

人は幼少期に、自分と同程度の人間と対立して物を取り合ったり、傷つけ合ったり、意見をぶつけ合ったりしながら、他人との距離感を把握していく。他人というのはここまで言われたらひどく落ち込むのだなとか、ここまで傷つけたら取り返しがつかないのだなとか、このようにすれば服従させられるのだなとか、このようにすれば自分より大きなものにも逆らうことができるのだなとか、そういったことは全て実際に真剣に他人と向き合い、ぶつかり合い、勝ったり負けたり、獲得したり喪失したりする経験がないとわからない感覚だ。他人との距離感をきちんと掴むためには、幼少期の喧嘩や争いの経験は絶対的に必要な要素となり得る。

 

 

・争いや喧嘩は、調和の母である

人間の世界では喧嘩をしたり争うことは悪であり、ぶつかり合わずに和を貴しとし、調和を心がけることこそ正義だと主張するが、そのような意見は浅はかな二元論に過ぎないだろう。人間は他人と真剣にぶつかり合い、本気で殴り合ったり叫び合ったり喧嘩したりした経験を通してこそ、他人との適切な距離感と本物の和と調和の感覚を手に入れることができるのだ。その意味において争いは調和の母であり、原点であり、争いと調和を真逆の対義語としてとらえ、単純に善悪を当てはめ、相容れない敵として見なすことは軽率な間違いとなる。人間の世界において、本物の和と調和を見出したいのなら、たくさん他人と争うべきだし喧嘩すべきだ。

 

 

・喧嘩をしたことがない人は、他人との距離感を把握できずに悩む傾向にある

ぼくが人間を観察していると「人生で喧嘩したことがない」「人と争ったことがない」と主張する人々はほとんど一人っ子か、兄弟がいてもものすごく歳が離れているということが多い。そのような観点から言うと喧嘩をしたことのない人格というのはその人自身が決定できるわけではない運命のような要素が強いのかもしれない。そしてそのような人々は、大人になっても他人との距離感がうまく掴めずに悩んでいたり困っていたり戸惑ったりしていることが多い印象だ。

喧嘩をしてはならない、争ってはならないと教育的に「争い=悪」だと見なして子供たちを抑圧することは単純だし簡単だ。しかし人間の成長や成熟はそんなに浅はかで単純なものではないだろう。幼い頃にきちんと喧嘩しておくこと、そして他人との距離感を的確に把握しておくことは、大人になってから他人とうまく調和し付き合っていくための重要な要素のひとつではないだろうか。

人間というものは必ず自我を持っている。樹木の枝のようにそれぞれの人間がそれぞれの自我を世界へ拡散させているのだから、他人と過ごしていて自我がぶつかり合わないはずがない。他人と調和して心地よく過ごすためには、お互いに自我を抑制させ、我慢したり諦めたりする必要性が出てくる。しかし自我というものを完全に抑え込むだけでは、自分として生きている感覚を見失ってしまう。どれだけ自我を抑制させるか、そしてどれだけ自我を主張するか、そのバランスや駆け引きを計画するという営みが、他人との距離感を把握するという生き方の本質ではないだろうか。

一部では自我を発散させまた他の一部では抑圧させつつ、他人との距離感を測りながら、自分がいかに納得して人間社会の中で他人と快適に調和して付き合っていくかということは、人生のQOLに大きく関わってくる重要な課題となるだろう。その調和の根源には、いつだって幼少期の争いや喧嘩の経験が横たわっていることを忘れてはならない。

争い合わないことが正しいというのは本当か?

 

 

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