生きているだけでただ愛されたい…人から愛されるためには理由や条件が必要だというのは本当か?

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ぼくたちが本当に求めていることは、何もなくても愛されることだけだ。生きているだけで価値があると抱きしめられることだ。

生きているだけでただ愛されたい…人から愛されるためには理由や条件が必要だというのは本当か?

・人の世では好いたり好かれたり、愛したり愛されたりする
・ぼくたちは愛されるために条件や理由を求めてしまう
・人から愛されるためには理由や条件が必要だというのは本当か?
・赤ちゃんの頃、ぼくたちは何の理由も条件もなくただ愛された
・まやかしの相対的な愛と、揺るぎない絶対的な愛
・何もなくても愛される絶対的な愛を享受するための道

・人の世では好いたり好かれたり、愛したり愛されたりする

ぼくたちは人生の中で、人を好きになったり、好かれたり、人を愛したり、愛されたりする。しかし好きになった人から好かれるとは限らないし、愛された人を愛することができるとも限らない。また好きになった人から好かれてお互いに結ばれたとしても、こちらの好きの量とあちらの好きの量が一致することは決してない。永遠に同じ量で「愛している」と言えない人間は、生きている限り孤独を感じるようにできているのかもしれない。

ぼくたちは好かれたい、愛されたいと思うように心ができている。そんなに意識して望まなくとも、嫌われるか好かれるかで言えば好かれる方がいいに決まっているし、憎まれるか愛されるかで言ったら愛された方がいいに決まっている。他人からたくさん好かれて、たくさん愛される傾向にある人のことを「モテる」と世の中では表現されていたりする。

 

 

・ぼくたちは愛されるために条件や理由を求めてしまう

ぼくたちは好きになったり、好かれたりするとき、そこには何らかの理由があるように感じられる。例えば男子が女子から好かれた場合、それはイケメンだからとか、背が高いからだとか、爽やかだからとか、足が速いからだとか、成績がいいからだとか、年収がいいからだとか、誠実な人柄だからとか、結婚するのに最適だからとか、様々な理由が考えられるだろう。また男子が男友達から好かれる場合、それはノリがいいかと、話が合うとか、趣味が合うとか、一緒にいて楽しいとか、これもまた様々な理由が挙げられるだろう。

また好き同士で付き合ったり結婚した場合、他人から「相手のどこがよかったの?」などと冷やかされて質問されるような場面も多々見受けられる。それは異性に対して「どんな人がタイプなの?」としばしば尋ねることにも類似している。

誰もがみんな、好きであるための理由を求めているし、好かれるためには、愛されるためには何らかの理由が必要であると感じている。だから好かれよう、愛されよう、人気者になろうとして、様々な好かれるために理由や要素を手に入れるための努力を惜しまない。典型的な例で言うと女子は服装の研究をしてお洒落に気合いを入れたり、男子は高学歴で高収入になり美人の奥さんを作ろうと勉強を頑張ったりする。最終的には自分の顔が醜いと整形したり、モテないのは毛深いからだと言って全身の永久脱毛までしてしまうかもしれない。

 

・人から愛されるためには理由や条件が必要だというのは本当か?

好かれるため、愛されるためには理由が必要な世界。だからこそ好かれるため、愛されるために努力を惜しまない世界。それは一見健全であるように見えるが、果たして本当にそうだろうか。好かれるためには、愛されるためには、何らかの理由や要素を自分に追加させなければならないような気がして、逆に言えば自分には何かが欠落しているから人から好かれないのかもしれないと怯えて、別に自分になろうとしたり、洗練した人間へとレベルアップしようと画策する。しかし本当にぼくたちは欠けているらしい自分を補完することで愛されることを望んでいるのだろか。何らかの理由の存在によってたくさん好かれることが幸福なのだろうか。

確かにぼくたちは他人から好かれることや、愛されることを本質的に望んでいる。しかしそれは自分の中に好かれる都合のいい理由があり、自分の中に好かれる優れた要素があり、だからこそ好かれるのだというような合理的な状況ではないのではないだろうか。ぼくたちは本当は、何もなくても、何かが欠けていても愛されたいという願いを持っているのではないだろうか。ぼくたちが本当に願っているのは「〜だから愛される」という状況ではなく、「〜なのに愛される」という状況ではないだろうか。

いつの間にかぼくたちは、他人から愛されるためにはそれ相応の理由が絶対に必要だと思い込むようになってしまった。例えば男子の場合は、他の男と比べてイケメンだからとか、他の男と比べて年収が高いからだとか、他の男と比べて社会的地位が高いとか、他と比べて何らかの素晴らしい理由がある”から”こそ愛されるはずだと、一般的にも思い込まれている。自分がどんなに無様でも、自分がどんなに愚かでも、自分が何も持っていなくても、愛されると確信できる人は少ない。誰かと比べて相対的に上位の人間になってこそ、人は愛されるのだと思い込み、どんな自分であろうとも、絶対的に愛されるという自信を持っている人ははるかに少ない。

 

・赤ちゃんの頃、ぼくたちは何の理由も条件もなくただ愛された

ぼくたちはいつから、何かがなければ愛されないと思うようになってしまったのだろか。ぼくたちがこの世に生まれついた時、自分は理由などなくとも無条件に絶対的に愛されるのだと確信した時代が誰にでもあったはずだ。それはぼくたちが赤ちゃんだった時代である。

赤ちゃんというものは親や周囲から絶対的に愛されるようにできている。それが野生の本能に仕組まれたものであろうと、母性本能に根ざすものであろうと、とにかくぼくたちはこの世に生まれたばかりの時代には、今とは異なり、理由もなく条件もなく、ただただひたすらに愛を注がれたはずだ。自分には何もない、何もできることがない、何も与えるものもない、何も返せるものもない、それ”なのに”愛されるという赤ちゃんの頃の経験を通して、誰もがすくすくと成長していく。ぼくたちはこの世界にたどり着いたとき、誰もが絶対的に肯定され、誰もが絶対的に愛されていたはずだ。生きているだけで価値がある、生きているただそれだけで認められる、その尊い感覚を無意識の中で覚えているからこそ、ぼくたちは生き続けることができるのではないだろうか。

にも関わらず成長するに従って、人は相対的にしか愛されなくなる。学校の成績がいい方が好かれるようになるし、スポーツが得意な方が好かれるようになるし、見た目がかっこいい方が好かれるようになるし、高学歴の方が好かれるようになる。人は大人になるにしたがって、愛されるための相対的な理由や条件を求め出し、絶対的に愛されるという経験、何もなくても、何もできなくても愛されるという経験を喪失していく。

 

 

・まやかしの相対的な愛と、揺るぎない絶対的な愛

人間は必死に愛されようと、愛されるための理由や条件を獲得しようと努力していく。外見を磨いたり、労働を頑張ったり、才能を開花させたりして、他人から認められようと努力するようになる。しかしどんなに努力しても欠乏感や喪失感を拭うことができない、どんなに成果を残しても満たされることができない、どんなに欠けたものを埋めようとしても埋まり切らない感じがする、それは本当は心の中では、絶対的に愛されることを望んでいるからではないだろうか。あなたが生きているだけで嬉しいと抱きしめられたいからではないだろうか。

世の中はぼくたちに洗脳してくる。好かれるためには、愛されるためには、それなりの理由や条件が必要だと、その理由や条件を兼ね備えることによって初めて、人は愛されることができるのだと。しかしそれはぼくたちが決して望まない、まやかしの相対的な愛されに過ぎない。ぼくたちが渇望して止まないのは、何もなくても愛されること、何も返せなくても愛されること、何もできなくても愛されることなのだ。

何かがある”から”愛されることなんて当たり前だ。それはその何かを与えることで、他人の利益になるし得になるし都合がいいからだ。けれど損得勘定にまみれた偽りの愛なんて望みはしない。ぼくたちが根源から望むのは、無条件の愛だ。理由もなく、条件もなく、赤ちゃんの頃に親から与えられたような揺るぎない絶対的な愛だ。生きているただそれだけで愛されることだ。ぼくたちはその尊さを覚えている。ぼくたちはその素晴らしさを記憶している。だからこそそれを無意識に求めてしまい、偽りに満ちた浮世の相対的な愛を退けて、あの懐かしい絶対的な愛へとたどり着きたい。あの愛が人生の中で最も真理に近かった。あの愛は今までの中で最も尊いことを知っていた。あの愛があったからこそ、ぼくたちは今、ここに立てていることすら知っている。

 

 

・何もなくても愛される絶対的な愛を享受するための道

しかし赤ちゃんでもないのに、絶対的に愛されることなんて人間にできるのだろうか。大人になってしまったぼくたちは、無条件で、理由もなく、絶対的に愛されることは不可能だろうか。生きているだけで価値を認められること、生きているだけで誰かが心から喜んでくれることはもうないのだろうか。人生の根源的な時代に絶対的な愛を惜しみなく注がれたなら、もはや大人になってからは諦めて都合のいい相対的な愛ばかりを享受するしか生きる道はないのだろうか。

ぼくが思うに、大人になったとしても絶対的な愛は宝石のように世界中に散らばっている。しかしおろおろと油断して、何も思考せずに、ただ他人や周囲に身を任せて生きているだけでは、決して絶対的な愛の存在は見つからない。思考停止でしか生きられない者に、真剣に生きない者に、必死に生きない者に、絶対的な愛は立ち現れないだろう。なぜなら彼らには、絶対的な愛というものを感受する心の受容体すら持たないからである。絶対的な愛と相対的な愛の区別もつかずに、ただ何となく愛されることだけを望んで欠乏感を埋められないまま、老いて病んでそして死ぬだろう。

ぼくたちができる全てのことは、不動明王のような顔つきで生きることだ。ただひたすらに目を見開き、必死の形相で真理を求めて魂の旅を続けることだけだ。そして自らもただひたすらに愛して、与え続けよう。生きているだけで価値があると抱きしめてゆく、生きているだけで嬉しいとただそばにいる。そのような生き方を続けていればそれを追い求めていなくても、絶対的な愛の方から自ずとあなたを訪れるだろう。

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