孤独にはお金の節約という大きなメリットがある!孤独が常に悪いことだというのは本当か?

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孤独にはお金の節約という大きなメリットがある!孤独が常に悪いことだというのは本当か?

・孤独死が問題だというのは本当か?
・生きている間もぼくたちはなるべく孤独であってはならない
・人付き合いの中でぼくたちはいつも無駄遣いをする傾向にある
・人付き合いをせずに孤独に暮らすことは節約の大きな味方になる
・「孤独は悪だ」という風潮は人間に消費を促すための洗脳である可能性がある

・孤独死が問題だというのは本当か?

世間では一人暮らしの孤独死が問題になっているようだ。確かに家族の誰にも看取られずに人から気づかれないままでこの世を去るというのは、人間の一生の終わりとしては常識的に考えて気の毒な印象が残るだろう。しかしその一方で、孤独死は世の中で言われているほど悪いことなのだろうかと疑問に思う気持ちもぼくの中にはある。だって誰かに見守られていようがひとり寂しく孤独に死のうが、死という行為そのものの意味に変わりはないのではないだろうか。

人間は愛する人々や家族に見守られながら死ねれば幸せだと思い込んでいるが、果たして本当にそうなのだろうか。誰かに見守られていようがそうでなかろうが、死ぬ時というのは同じくらい苦しかったり、頭がぼんやりとした朦朧状態になっているのではないだろうか。あるいは死ぬ間際というのはまだまだ肉体が死ぬまいとして最後の力を振り絞って必死に生き延びようとしている最中なので、はっきり言って他人のことなんてどうでもいいのではないだろうか。死という旅立ちにあたって自分のことで精一杯になっているのに、周囲に誰がいるから嬉しいとか自分ひとりで寂しいとか、そんな悠長なことを考える余裕なんてあるはずがないとぼくは感じる。

この世を去るという行為は人間にとって、この世に生まれた誕生の瞬間と同じくらい神聖で厳かで衝撃的な儀式であるはずだ。ぼくたちが持つ最大の神秘は、ぼくたちの魂がどこから来てそしてどこへ去っていくのか全く知らないということにあるのではないだろうか。そしてその最大の神秘に最も深く関わっているのが、まさに「誕生」と「死」という2つの瞬間なのだ。どこから来てどこへ行くのかさえわからないまま、死の世界から生の世界へ(誕生)もしくは生の世界から死の世界へ(死)と移り変わる最も衝撃的な旅立ちの瞬間において、果たして必死になっている魂が他人のことまで気にするはずがあるだろうか。

家族や他人に見守られていようが、ひとり寂しく孤独に死のうが、死には全く同じ意味と価値しかないとぼくには感じられる。死ぬ時はみんなひとりだ。人間は孤独というものに過剰に怯えすぎではないだろうか。

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・生きている間もぼくたちはなるべく孤独であってはならない

死の瞬間だけではなく生きている間もずっと、みんなと一緒に楽しまなければならない、誰かと協力して人生を歩まなければならない、なるべく孤独に生きてはならないと、ぼくたちは社会から強迫観念を植え付けられている。常識的に考えれば、ひとりきりで生きるよりも誰かと過ごしていた方が確かに賑やかし、楽しそうだし、幸せそうに見える。しかしそれもその人の感性次第であり、ひとりでいる方が楽だし楽しいと感じる人もあれば、誰か他人と過ごさなければ寂しくて嫌だという人もいるだろう。また同じ人間であっても、ひとりで静かに過ごす日もあれば誰かと一緒に賑やかに過ごす日もあるに違いない。

 

 

・人付き合いの中でぼくたちはいつも無駄遣いをする傾向にある

ぼくも当然誰かと過ごすこともあればひとりで過ごすこともあるが、その2つを比較して確実に言えるのは、誰かと一緒に過ごす方が確実にひとりで過ごすよりもやたらと無駄遣いをしてしまうということだ。ひとりならば絶対にこんなことにはお金を使わないと思うようなくだらないことに、他人と一緒ならば簡単にお金を払ってしまうからとても不思議だ。これこそがまさに”人付き合い”という消費を促すことができる巧妙なマジックなのだろう。ぼくは普段から節約家で、自分の納得がいくものにならば惜しみなくお金を使ってしまうが、その代わり自分の心にとって必要がないと思ったものには一切お金を払わないように心がけているので、その差はより一層際立ってしまう。

誰かといるとあまり好みではないお店にも付き合いで入ってしまうし、相手に合わせて大して欲しくないドリンクや高い食べ物も頼んでしまうし、どうでもいいサービスにも仕方なくお金を払ってしまう。当然のことながら他人といるといつも尊重している自分の心の声や直感的な思いが聞き取りにくくなり、それよりも自分と他人によって構成された共同体の中でどのように協調性を伴って行動すべきかを基準として判断してしまう。自分の思いは抑制してその人と平和に楽しく過ごすことが最大の目標となってしまうので、集団として有意義な時間を過ごすことはできても個人的な幸福の観点から心が満たされているとは限らない。しかしおそらく誰もがそうするように、人付き合いをする場合はもはや自分のことよりも協調性を重要視して過ごすことを覚悟しているので、集団としての幸福が感じられれば達成感を感じることはできるだろう。

 

 

・人付き合いをせずに孤独に暮らすことは節約の大きな味方になる

重要なのは孤独はいつも悪者であるとは限らないということだ。お金の節約という観点から言えば、孤独は間違いないく孤独でないことよりもはるかに優秀である。孤独であれば迷いや雑念なく自分の心の声や直感だけを聞き、自分が本当に欲しいものや好きなことだけにお金を使うことができる一方で、どうでもいいものには見向きもすることなく浪費を抑えることができるだろう。逆に人付き合いをすれば賑やかで自分ひとりでは味わえない刺激的な時間を過ごすことができるが、自分にとって本当に必要でないものに大量のお金を費やす結果となってしまう可能性が高いだろう。しかしそれは人付き合いの宿命であり、無駄な浪費を通して人々との交流を深め人生に味わいを出すことができるのだから仕方のない出費だと諦めるのが賢明だ。

しかし自分にとって有意義な人付き合いならばいいものの、本当は一緒にいたくないような人々と過ごす時間のために浪費をすることは、自分が必死に稼いだお金が可哀想なので考え直す必要がある。人生は短く、そして有限だ。自分の生きている時間をどうでもいい人々や嫌いな人々のために費やすほど、余分な時間は残されていないだろう。大抵の場合お金とは、人生の貴重な時間を切り売りして得られたいわば自分の生命の分身のような存在だ。生命の分身であるかけがえのないお金を、いかにしてこの人生の中で納得いくように上手に使い切るかは完全に自分自身の判断能力にかかっている。どんなに大きくお金を稼ごうとも、それを自分の幸福のために最大限有効活用できなければお金の達人にはなれないだろう。

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・「孤独は悪だ」という風潮は人間に消費を促すための洗脳である可能性がある

注意すべきことは「孤独は悪だ」という人間社会の常識を鵜呑みにすべきではないということだ。なぜ人間社会では「孤独は悪だ」という風潮が蔓延しているのか、それは孤独であれば人間が自分の心の声や直感に耳を傾けてしまい、自分を見つめ直してしまうことによって余計な浪費をしなくなり経済が回りにくいからではないだろうか。逆に「孤独は悪だ」という植え付けに成功し、人間が人付き合いばかりするようになると、迷いや雑念によって人々が自分にとって本当に大切なものは何かを考えなくなり、思考停止してくだらないことや馬鹿らしいことにお金を使ってくれるから社会にとっては好都合だろう。

ぼくたちに植え付けられた常識や洗脳は、結局人間社会にとっての損得勘定に支配されている側面が大きいのかもしれない。逆に言えば人間個人の利益や幸福を、世間の常識は考えていないどころか削ぎ落とそうと企んでいる場合も多いことだろう。ぼくたちが奪い取られず、盗まれず、ただ自分自身の幸福のために純粋に真っ直ぐ燃え盛るように生きるためには何が必要なのだろうか。それはまさに世界に君臨している常識というものが本当に正しいのか、それを自らの感性や直感によって0から考え直す思考能力に他ならない。既存の常識や正しさを破壊し、自らの感性によって真理を描き直そうという試みを、ぼくは「みずいろてすと」というブログの中で行なっている。

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