未知への不安が暴走する!心配されるのがありがたいというのは本当か?

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「みんな心配してたんだよ」という恐ろしい呪いの言葉。

 

心配されるのがありがたいというのは本当か?

・みんなが心配している
・未熟な心配の発生
・高慢な心配の発生
・心配の効用

・みんなが心配している

旅に出ていると、誰かに心配されるということがある。言葉もわからない異国へ行き、まったく知らない土地を旅するのだからとても心配だというのだ。それはもっともな意見だが、これはまったく外国に行ったことのない人の意見であることが大半である。

外国に行ったことがある経験があれば、そしてそれに対して自ら調べたり対策したことのある人ならば、このような心配は生じにくいだろう。誰もが異国へ赴く時は、きちんと思考して調査して行動することを知っているからだ。そして何か問題が起きた際でもなんとか解決するだけの能力を、人間は大概持っていることを知っている。

逆に外国に行ったという経験のない、もしくは乏しい人々は、その経験値が少ないあまりに、自らの外国に対するおそれや不安を他人にまで適応させ助長させ、自分自身の“不安”をあたかも相手に向けての“心配”であると勘違いし、このように言い放つ例は後を絶たない。

「みんな心配してたんだよ」「どうしてみんなを心配させるの」

 

 

・未熟な心配の発生

これらの言葉にはひどい違和感しか覚えないのはぼくだけだろうか。

まず、自分の中にあるおそれや不安を、相手のためである“心配”だと取り違えていることに違和感がある。おそれや不安は、自分が未経験であり未知であるからこそ生じているものだ。いわば自分が努めて真剣に世界へと対峙したりぶつかったりしたことを怠った証であり、自らの怠慢により生じた“おそれ”や“不安”はこちらの預かり知るところではない。すべてはおそれたり不安になったりする本人の問題だ。

しかしその人は、自らの中に生じたそのおそれや不安を自分自身の中に収めておくだけに留まらず、相手へとその範囲を拡張させ、そのおそれや不安を相手と関連するものとみなして、それを“心配”だと名付ける。自分の未熟さの問題であるところのおそれや不安なのだから、自分だけで勝手に抱いていればいいものを、相手へと押し付けるからおかしなことになる。

心配された方もあっけにとられてしまう。どうして相手が無知であることや未経験であることや未熟であること、それらに真剣に挑戦しなかった代償としてのおそれや不安を、真剣にそれらと向き合い対峙してきた自分が押し付けられなければならないのだろう。そしてその未熟な精神から生じた偽性の“心配”を押し付けるような人間は、信じられない次のような言葉を口にするのだ。

「心配されていることをありがたく思いなさい」と。

 

 

・高慢な心配の発生

「心配されていることをありがたく思いなさい」とは、なんと傲慢で厚かましい言葉だろうか。これは言い換えれば「心配してやっているわたしをありがたく思え」と心の中でふんぞり返っている態度である。

とんでもないことである。その相手のいうところの“心配”というものの由来を考えれば、こんなお門違いな言葉は放たれないはずである。それは相手の未熟さから生じたおそれや不安が、それらの感情を押し付けがましく合理化し正当化させるために作られた偽の“心配”である。

本当に人のことを心から思いやっている“心配”であったならば、このような高慢な言葉や態度が出てくるはずがない。自分の未熟さや真剣に人生を生きることを手放してきた精神から勝手に偽の“心配”を発生させているだけであるのに、それをありがたく思えとは勘違いも甚だしいと言えるだろう。

 

 

・心配の効用

さらに万が一その“心配”が真性のものであったとして、心配から生み出される利益とはいったい何なのだろうか。心配から生み出される善良なものとはいったいなんだろう。

相手を心配する気持ちは、自分を嘆かせ、戸惑わせ、困惑させる。そしてストレスを蓄積させ、それは周囲の人にすら悪影響を与えることもあるだろう。そして肝心の心配している相手に対しては、なにひとつできることなどない。

心配しているなら心配しているなりに、それを解決するために自分にできることを思考し考察し、その結果として何か行動を起こすのならば心配も有益なものになるだろうが、残念ながら心配してやっているんだと言う高慢な人は、ただただ心配しているだけでなにひとつ行動を起こそうとしない。いわば意味をなさない心配である。それどころか上記のように悪影響をもたらしかねない。そんな心配に価値があるだろうか。

しかし他人の感情に口出しするのも野暮というものである。誰だって価値もなく、笑ったり喜んだり悲しんだり泣いたりするものだ。それと同様に心配だって思う存分にするがよい。しかしたかが自分の一感情に過ぎない“おそれ”や“不安”、その転換としての“心配”を、誰かのために生じさせてやっているのだという見当違いでおこがましい態度は、断じて慎むべきである。

 

 

 

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