舌が肥えると飯が不味い?!味がわかる大人になった方が豊かな人生を送れるというのは本当か?

(この記事には広告が含まれる場合があります)

 

味がわからない方が人生は幸福だ!!!!!

舌が肥えると飯が不味い?!味がわかる大人になった方が豊かな人生を送れるというのは本当か?

・味のわかる後輩と、全く味のわからないぼく
・味がわかる大人になった方が豊かな人生を送れるというのは本当か?
・舌が肥え味のわかる大人になることは不幸への始まり
・ささやかで絶対的な味覚が、本当に豊かな人生へと招いてくれる

・味のわかる後輩と、全く味のわからないぼく

日本一周の旅の途中岡山県へ立ち寄って高校の後輩とお昼ご飯を食べに行った。彼は岡山県在住なので色々と市内を案内してもらった後、岡山市中央卸売市場というローカルな市場へとたどり着き、そこで1700円の海鮮丼を食べた。

岡山フルーツのかき氷!岡山市のおまち堂でシャインマスカットと桃のかき氷を食べてきた

1700円の海鮮丼にしては巨大で具沢山だったし味も美味しかったのでぼくは大満足だった。「1700円でこれやったらお得やなー!」と後輩に言うと、彼は「んーでもあんまり新鮮なネタじゃないな」と言い放った。

ぼくはこの海鮮丼を食べながら「美味しい海鮮丼だなぁ」としか思わなかったので、海鮮の新鮮さがわかる後輩の味覚の敏感さに感心した。彼のような人を“舌が肥えている人“と言うのだろうか。逆に言えばぼくは“全く舌が肥えていない味のわからない人”ということになる。

きっと彼はこれまでの人生で良質な海鮮やものすごく新鮮な海鮮をたくさん食べてきたのだろう。その中にはものすごく高級なネタも含まれていたのかもしれない。そのような経験値があるからこそ、日常生活において海鮮丼を食べたような時でも、この海鮮は新鮮じゃないとかこの海鮮は高品質だとか比較してわかるようになるのだろう。

 

 

・味がわかる大人になった方が豊かな人生を送れるというのは本当か?

海に囲まれた日本では様々な種類の海鮮料理を目にすることができる。スーパーマーケットで安い寿司を気軽に買うことだってできるし、高級料亭で何万円もする寿司を食べることだってできる。したがって海鮮の新鮮さや良し悪しがわかることは、成熟した大人になるために必要なことなのかもしれない。

質の悪い海鮮を食べていても「あーこれ美味しいなぁ!」などと言っていると、「この人はいいものを食べたことがないのだなぁ、だから味がわからないのだなぁ、あぁかわいそうに」と哀れみの目で見られる可能性もなきにしもあらずといったところだろう。

逆に後輩のように舌が肥えてちゃんと味がわかる人間になっていると、これまでに色々高級なものを食べてきたんだなぁと、豊かな人生を送っている成熟した大人というような印象を持たれるだろう。ぼくももっと様々な種類の高級な食べ物を食べて経験値を増やし、舌が肥えて味のわかる大人になり、味覚的に豊かな人生を送った方がいいのだろうか。

 

 

・舌が肥え味のわかる大人になることは不幸への始まり

しかしそんな常識的なアイデアとは真逆に、ぼくは心の中で密かに「自分は味がわからない人間でよかったなぁ」と感じていた。だって味がわかるような舌が肥えた人間になってしまっては、この1700円の海鮮丼があんまり美味しく感じられなくなってしまうということだ。それってとても不幸なことではないだろうか。

同じ1700円の海鮮丼を食べているのに、舌が肥えた片方はあまり美味しくないと感じ、舌が肥えていない片方はとても美味しい海鮮丼だなぁと感動する。どう考えても後者の方がお得で幸せな味覚を持ち合わせているのではないだろうか。さらには後者の方が何事においてもコスパのいい人生を送ることができると言えるだろう。1700円の海鮮丼で大満足できる人間と、1700円の海鮮丼の質では物足りないと感じ、もっと高級で新鮮なものを食べないと満足できなくなってしまった人間。前者はお金がかからず節約しやすい人生を送れるのに対し、後者はさぞお金のかかる人生を送る運命となるだろう。

考えてみればぼくは海鮮丼に限らず、あらゆる食事において安いもので美味しいと感じられる味覚を持ち合わせている。スーパーのお寿司だってものすごく美味しいなぁと思えるし、格安のお弁当だって美味しい美味しいと思いながら満足して食べられる。思い返してみるとものすごくコスパのいい舌を持って生きてきたのかもしれない。確かに成熟した味覚を持った大人だとは呼ばれないだろうし、もっといいものをいっぱい食べて様々な高級店へと足を運び料理だけではなくその雰囲気まで経験した方が、豊かな人生を送れるのかもしれない。しかしぼくはどうしても質素なもの、ささやかなもの、小さなもので満足してしまえる精神構造を保っていたいという願いがある。それは性分なのでどうにも変え難いものなのかもしれない。

 

 

・ささやかで絶対的な味覚が、本当に豊かな人生へと招いてくれる

これから大人になるにつれて高級なものを食べる機会も増えてくるだろうと予想されるが、願はくば高級なものを食べて抱く「美味しい」という感動と、安くささやかで質素なものを食べて抱く「美味しい」という感動が、全くの同一になってしまうような人生を送りたい。例えば高級な料亭で一流の料理人が作った料理と、自宅で自分で簡単に作った料理が、同じくらい「美味しい」と感じられるような感性をずっと持ち続けていたい。それこそが本当の豊かな人生へとつながると、ぼくの直感が信じているからだ。

世間一般の通念で言えば、そんなのは人生の豊かさではないのだろう。常識的には、高級なものをたくさん食べて、味の違いがわかるような大人になり、肥えた舌で様々な料理を比較して味わうことが豊かな人生と呼ばれるのだろう。しかしそれは最も不幸な道だとぼくの中の直感が騒いでいる。高級な料理を食べてしまった経験を比較の基準とし、その後食べるあらゆる料理を相対的な視点でとらえていては、その料理の持つ絶対的な価値に気づくことがないだろう。料理だって所詮、年収や美貌や偏差値で比較される人間と同じように、相対的な価値の中で判断されるだけの悲しい産物だろうか。そうではない絶対的な価値にそろそろ気づくべきだと、森羅万象が叫んでいる。

ぼくの中の豊かな人生とは、自分の作ったささやかな料理が世界で一番美味しいと感じられるような絶対的な世界に安住し続けることだ。そして今のところ、ぼくの世界は平穏に保たれている。

料理を作るメリットは生命の根源的な罪深さを知ることにある!料理男子がモテるというのは本当か?

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

 

関連記事