全ては自分の心が原因!不幸の原因は他人や環境や外的要因にあるというのは本当か?

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不幸の原因はいつだって自分の心だ。

全ては自分の心が原因!不幸の原因は他人や環境や外的要因にあるというのは本当か?

・自分が不幸だと感じる原因がたったひとつであるというのは本当か?
・医者のぼくが自分を幸福だと感じた理由
・周囲の誰をももれなく愛することができる少女の幸福
・ぼくたちが目指すべき赤ちゃんの絶対的な幸福

・自分が不幸だと感じる原因がたったひとつであるというのは本当か?

この世で自分は幸せではない、もっと極端に言えば「自分は不幸だ」と感じながら暗い顔をして生きている人は意外と多い。不幸な人は自分が不幸な原因に思いを巡らせては、自分の顔が不細工だからだとか、自分の頭が悪いからだとか、職場の環境が悪いからだとか、親がよくなかったからだとか、田舎に生まれたからだとか、日本に生まれたからだとか、とにかく様々な自分が不幸であるための理にかなった原因を論理的に見つけ出しては、どうしようもない自分の身の上を嘆いたりするものだ。

しかし自分が不幸だと感じながら生きている原因をたったひとつに決めつけて、それさえなければ自分の人生は明るくなるはずなのにと思い込むことは危険だ。それを除去し、それを退け、それを遠ざけることで自分は幸福になれるはずだと思い込み、突き進み、そのたったひとつに執着することで目の前が見えなくなって誤った方向へ導かれる場合もあるからだ。

例えば自分の人生が何となく不幸だと感じる。そしてその原因を追求したところ、自分が無細工であることが全ての不幸の元凶だと考え始める。自分が不細工であることが不幸の原因であり、自分が不細工でさえなくなれば自分には幸福が訪れるはずだと思い込む。その思いは暴走し、やがて整形手術を施したとする。それでその人は幸福になれるのだろうか。もしも「全ての不幸の元凶が自分の顔が不細工なことである」という命題が真であり正しいのならば、それは整形手術により幸福を得られるだろう。しかし実際問題そのようなことがあるだろうか。自分の人生が不幸だと感じる原因が、本当に単純明快にたったひとつだけで収まるのだろうか。

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ぼくにはとてもそうは思えない。何となく人生が不幸だ、自分は間違っている、自分は否定されるべき人間だと思い込んでしまっている人間には、たったひとつではなくいくつもの要因が複雑に重なり合って不幸を生じさせているのではないだろうか。それを思考能力や見定める力がないばかりにたったひとつが原因だと見誤り、思い込み、それさえ排除できれば自分は幸せだと突き進み、飛びつき、自分を傷つけ、エネルギーを間違った方向に費やし、お金も奪い取られ、そのたったひとつを取り除いたところで自分の心から不幸が消えるわけではなかったという結末は、あまりに虚しいものではないだろうか。

人間の不幸の根源は、一体どこにあるのだろうか。

 

 

・医者のぼくが自分を幸福だと感じた理由

ぼくは医者として病院で働いて気づいたことがある。それは自分が若くて健やかで健康だということだ。それは病気を抱えたお年寄りの人々と毎日接していたから、自分の健康のありがたさに気づけたというのに他ならない。この世には病で苦しんでいる人たちがたくさんいて、その病を癒そうと医者として努力する一方で、病を持っていない自分の姿が鏡のように映し出され、病を持たないありがたさを享受してしまう。

例えば日常生活で排尿を行うときも、きちんと排尿ができるなんてとても幸せだと感じるようになった。それは尿道が閉じてしまい、膀胱から尿が外へと出なくなり、膀胱がパンパンに膨れて苦しんでいるおじいさんを救急外来で診察したからだ。

また自分が何の苦労もなく排便できることすら、ぼくはとても幸福だと感じた。それは肛門周囲のガンにかかり、手術で肛門を取り除かざるを得なかった患者さんを何人も診たからだ。肛門を取り除いてしまってはもはや自分の思いのままに、自分の筋肉や神経を使って普通に排便することができなくなる。人工肛門という袋を皮膚を切ってお腹の外から腸へとつなぎ、そこに自然と便が溜まったら自分で捨てにいくという生活になるからだ。

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悲しいことや苦しいことは人生を見渡せばなんぼでもあるが、そんなことよりももっと根本的に、自分の若さや健やかさのありがたさを悟れば、自分は病気もなくてなんて幸福なのだろうと感じる結果となるものだ。しかしこれは病気の人と病人ではない自分を比べているので、人と比べたところに出現する相対的な幸福だということができる。

 

 

・周囲の誰をももれなく愛することができる少女の幸福

ぼくが日本一周の旅の途中、鳥取県の皆生温泉で4泊した。その際ホテルでランチを食べていると、隣の席で小さな女の子が家族と一緒にランチしていた。まだ小さくて言葉を喋り始めのその女の子は一生懸命みんなに向かってたどたどしく「お母さん大好き」「お父さん大好き」「おばあちゃん大好き」…とその机にいる全ての家族に向かって一人一人大好きだということを告げていた。ぼくはその女の子を見て、これこそが本当の幸福というのだろうと感じた。自分に関わってくれている全ての人々を、愛することができるというこれ以上にない幸福。

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性機能を成熟させた大人たちは自尊心を満たそうと愛されること、モテることばかりに気を取られてしまうが、本当は愛されることよりも、愛するということの方が揺るぎのない幸福ではないだろうか。

 

 

・ぼくたちが目指すべき赤ちゃんの絶対的な幸福

その女の子よりももっと小さな生まれたての赤ちゃんを見ていると、この子はもっと幸福なのではないかと思えてくる。あまりに幼すぎて自分がこの世にいることもまだ気づいていないような、自我を発芽させる前の無意識の世界を泳いでいる赤ちゃん。しかし自我を出現させてしまえば自分と他人を分け隔て、自分と他人を次第に比較するようになり、自分と他人を比較した先の相対的な世界にしか幸福を見出せなくなることだろう。

まさに今、自我を発芽させる前の無意識の中で、自分も他人もありえない世界で、赤ちゃんは誰とも比べないし比べられない”絶対的な幸福”を感じ取っているのではないだろうか。この相対的ではない、比較する必要がない、揺るぎない不動の、絶対的幸福の感触こそ、自分を不幸だと感じてしまうぼくたちが今取り戻すべき価値観ではないだろうか。

ぼくたちの消えない不幸の根源は、相対的な世界の中に否応なしに投げ込まれたことによって生じる相対的な自分自身の心ではないだろうか。いいことも悪いことも起こるこの世の中において、悪いことばかりに気を取られていいことを見つめる心を失くしている。嬉しいことも悲しいことも押し寄せるこの世界において、悲しいことばかりを飲み込みすぎて嬉しいことがあったことを忘れている。幸せにも不幸にも、明るくも暗くも、楽しくもつらくも、心次第でいかようにもとれるこの世界において、不幸を選びとっていたのはまぎれもない自分自身の心だった。

もうぼくたちが相対的な不幸の波に飲み込まれて自分自身を見失わないために、たどり着くべきものはただひとつ。それは赤ちゃんの持つ絶対的な幸福感ではないだろうか。とめどない幸福、揺るぎない幸福、まぎれもない幸福、誰にも支配されない幸福、聖域に守られた純粋な幸福。もはや赤ちゃんではなくなってしまった大人の中にも必ず、消えずに赤ちゃんの自分は潜んでいるはずだ。赤ちゃんの自分を過去に捨て去ったからぼくたちは大人になったわけではなく、赤ちゃんの自分を大切に自分の中に保ちながらぼくたちは大人になるのだ。純粋で清らかな心を失っていなければ、いつだって赤ちゃんの自分へ通じる扉の鍵は掌に用意されている。

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