ぼくたちは願ったことがないだろうか。なにかもっと別の人生を歩めたならばと。
こんなはずの人生ではなかったというのは本当か? 〜中島みゆき「24時着0時発」とぼくたちの母川回帰〜
・もっと別の人生がいいな
・仮定することに意味はない
・分裂された運命の軌道
・鮭たちの母川回帰
・もっと別の人生がいいな
ぼくたちはたまにぼんやり考えたりしないだろうか、あの時別の道を選んでいたらどうなっていたのだろうかと。ぼくたちはたまに願ったりしないだろうか、今とは違う別の人生の軌道を歩いてみたいと。
今の人生に満足していなかったり、他人と比較して自分の人生が惨めに感じたりする時、ぼくたちは今歩いているのとは違うもうひとつの人生について夢想する。もしもあの人生の分かれ道でもうひとつの方を選んでいたならば、今よりももっといい人生が待っていたのかもしれないのにと妄想する。
人には多かれ少なかれ選択せざるを得ない状況において、自らの選択に対する後悔の気持ちが見え隠れするものなのかもしれない。
本心ではこちらを選びたいと強く願っていたのに、他人の目や常識を気にして別の方を選んでしまったのかもしれない。自分の直感ではこちらを選んだ方がいいとわかっていたのに、根拠のない自らの直感や本能を信じて失敗することが怖くて、より安全な道を選んでしまったのかもしれない。自分ではそれは間違いだとわかっているのに、親や身内の願いを尊重して違和感のある道へと足を進めたのかもしれない。
自分でその道を選択したのならば、後悔したところで自分を恨むだけで済むので諦めもつくだろうが、他人に選択を選ばされたという場合には、その選ばせた他人を恨みながら生きていくことになるので生きていく苦しみも深くなる。そしてどうして他人ではなく自分の意思で選択しなかったのだろうと、自分自身で選択しなかったことをさらに後悔し、自分を恨むことにつながるかもしれない。
「自分で選択する」という言葉も怪しいものだ。自分で選択するにも様々な多角的な要因があり、その要因によって自分は”選ばされた”はずだ。その多角的な要因の流れのことを”運命”と名付けるならば、ぼくたちは自分で選択したつもりでも結局は運命に翻弄されている。その運命のことを仏教用語では”他力”と表現することもできるだろう。
しかし今の人生に不満があるからと言って、運命というものを恨むことはできない。他人によって選択を選ばされた場合には、同じ次元の人間という存在だから心の中で攻撃もしやすく恨みも向けやすいが、壮大な宇宙の流れとしての運命を恨んだところで、虚しくなるだけだから運命を恨む人なんていないだろう。ぼくたち人間は、なんて卑小な存在なのだろう。
・仮定することに意味はない
ぼくは後悔というものをしたことがない。過去を後悔しても、無駄なことだとわかっているからだ。あの時ああしておけばよかったと後悔したところで、その過去を変えることができるだろうか。できないと知っていながら、後悔するという不合理な心理を発動して生きるという尊い時間を無駄にすることはできない。
過去に思いを馳せて、もしもあちらを選択していたならばと”仮定”することも無意味だ。今のぼくたちは、あちらを選択しなったという運命の軌道上に存在しており、もしもあちらを選択していたとすれば自分が自分ではなくなってしまう。あちらを選択しなかったという事実も、自分という存在の中に含まれているからだ。あちらを選択したならば、自分という存在はこの世から消滅してしまう。それでも人生における仮定を愚かに続けるだろうか。
重要なことは、過去を眺めながら後悔や仮定を繰り替えることよりも、自分という存在は今まで辿ってきた運命の軌道の中にしかあり得ないのだということを思い定め、その結果としての今という点だけを見つめて、今の自分を受け入れた上で、これからどのように生きていくべきか考えることではないだろうか。自分が自分を生きるという覚悟さえ定まれば、後悔や仮定など生じないのではないだろうか。
”仮定した自分を作り出しては
それと自分を比べて
自分を嫌いになるような醜い人間に
ぼくはならない”
と、10年前の自分も今と変わらずつぶやいていた。
・分裂された運命の軌道
中島みゆきは夜会「24時着0時発」のクライマックスで彼女は意味深にこう言った。
”ひとつの軌道に誰かが入っている限り、その出口は、その誰かのためにしか開かない作りになっていた”
この言葉から劇中で怒涛の絶唱ラッシュが始まるという、いわば夜会「24時着0時発」のキーワード的な言葉であると言える。
この言葉は長い旅を終えて鮭たちが故郷の川へと遡上して帰っていこうとする時に、人間により作られたリゾートの廃墟の川の中へと迷い込み、魂が彷徨ってしまうという場面で語らえる。本来の川の流れは、人間達がリゾート建設した際に蛇行を曲げられ、今は三日月湖として存在している。リゾートという人間の欲望が生み出した迷妄の川の流れと、三日月湖の2つが並列して存在しており、鮭たちは迷妄の偽物の川から、本来の故郷の川の流れである三日月湖への脱出を願っている。
この物語の中では、川の流れを鉄道の軌道に見立て、迷妄の川から三日月湖へと水の流れを返還させる「転轍機」を探すことになる。しかし、転轍機を切り替えることを恐ろしく思い反対する男もいた。男の言い分はこうである。
「待ってください!その転轍機を切り替えて、もし分水路の水門が開いたなら、私たちはもうこの階段には戻れない!その水門の先、水の第一線路に踏み込んで、あの三日月の蛇行の出口が、もしも開いていなければ、私たちは、枯れた線路で息絶える」
その恐れに対して、中島みゆきは確信してこう答えたのだ。
「いいえ、必ず開いてる!ひとつの軌道に誰かが入っている限り、その出口は、その誰かのためにしか開かない作りになっていた。信じるしかない約束の名は、鎖錠。山の中の小さな小さな駅で、一生働いた私の父は、田舎者の鉄道員でした。」
・鮭たちの母川回帰
鮭達はどんなに遠くへ旅立ったとしても、必ず自分の生まれた故郷の川を探し当てるという。どのように自分の故郷の川をピタリを探し当てるのか、科学的にはまだ正確にわかっていないらしい。彼らは日本からアメリカ、ロシアまではるかなる旅に出て、そして必ず故郷の日本の川へ戻ってくる。自分が産卵するのにふさわしい、自分にとって行くべき川の在処を、直感や本能でわかっているのだ。
ぼくたち人間も同じではないだろうか。ぼくたちは誰でも、本来歩むべき道を生まれた時には知っている。自分にふさわしい川の名前、自分が何のために生まれてきたのかを、生まれた時には鮭のようにしっかりと確信している。しかし生きていくにつれて、常識やしきたりや思い上がりが植え付けられるにしたがって、直感の瞳は鈍く濁り、自分が辿り着くべき運命の川の名前を見失ってしまう。
鮭だって、渡り鳥だって、ミツバチだって、自分の行くべき国の名を生まれた時から知っている。この世に生まれてきた命で何をするべきかを、確かに見失わずに感じ取って燃えるように生き抜いていく。それを見失い、運命の軌道から遠く離れ、生きざるを得ない迷妄の生物は、人間だけではあるまいか。
迷いが生じれば恐れが生じる。自分の直感を信じることができずに、安全な道や体裁のよい道ばかり選んでいると、自らの中の羅針盤との齟齬が生じ、ついには生きることに違和感を覚え始める。進むべき運命の川の名前を本当は知っているのなら、そしてそれが困難で危険な道であり恐れに動けなくなっているのなら、中島みゆきの言葉を聞けばいい。
”ひとつの軌道に誰かが入っている限り、その出口は、その誰かのためにしか開かない作りになっていた”
人間が恐れを超えて、自分にとってふさわしい運命の川の流れの中に入り込んだ時、必ず先の出口は開かれ、元の本流へと繋がっていく。恐れの中、魂がふさわしいと選んだ軌道へと入っていけば自ずと道は開かれる。これを安直な自己啓発本ではなく、鮭と銀河鉄道と輪廻転生を織り交ぜた音楽として昇華された夜会の中で表現するところに、中島みゆきの尊い大きな価値がある。