ぼくたちは他者を傷つけずに生きられるというのは本当か? 〜傷つけ合うのは自我を持つ人間の宿命〜

 

人が自我を持って生きている限り、誰もが誰かを傷つける罪人だ。

ぼくたちは他者を傷つけずに生きられるというのは本当か? 〜傷つけ合うのは自我を持つ人間の宿命〜

・「他人を傷つけてはならない」
・ぼくはスーツが大嫌い
・ぼくは納豆が大嫌い
・「ぼくがベトナムを嫌いな7つの理由」
・人間が自我を持ち生命活動を営む限り、他者を傷つけるのは自然

・「他人を傷つけてはならない」

ぼくたちは幼い頃に大人たちから、他人を傷つけてはいけない、みんな仲良くしなければならないと教えられる。しかし、誰も傷つけずに生きていくなんて人間に可能なのだろうか。

ぼくたちはふと自分を主張しただけで、簡単に誰かを傷つけてしまうような脆く儚い世界に生きている。また、自分が幸福になりたいという生命として当然の願いを追求するだけで、多くの他人を蹴落としてしまう結果にすらなりうる。

 

 

・ぼくはスーツが大嫌い

たとえばぼくは先日、スーツが大嫌いだという自らの感性を主張した文章を書いた。スーツが大嫌いだと感じる感性はぼくに備えられたどうしようもない感覚であり、それをわざわざ嫌いだと声高に叫ぶこともないが、それを大嫌いだと世界に向かって主張できるのも一応ぼくの権利である。

スーツを着た男性がカッコいいというのは本当か? 〜ぼくがスーツを嫌いな理由〜

しかしここで気がかりなのは、もしもぼくの文章を読んでくれている人の中に、たまたまスーツ屋さんがいたらどうなるだろうということだ。そしてその人がスーツが大好きで、スーツを着るという社会的文化を愛していて、そしてスーツを売っている自分を誇りに思っているとしたら、きっとぼくのスーツが意味不明で奇妙キテレツな衣裳だと表現した文章を読んで深く傷つくに違いない。

もしもそんなことが本当に起きていたならスーツ屋さんに申し訳ない限りである。しかし今の現代社会においてスーツは絶大な権力を持った衣裳であり、ぼくひとりが大嫌いだと主張したところでスーツが売れなくなることなんてありえないのだからどうか寛大にゆるしてほしい。

 

・ぼくは納豆が大嫌い

同じようにぼくは納豆が嫌いだ。関西人には納豆が食べられない人が多いらしく、ぼくもその例に漏れていない。もしもぼくがみずいろてすとで「納豆が美味しいというのは本当か?」という記事を書いて納豆の悪口を書いたなら、納豆好きな人はいい思いはしないだろう。そして納豆を心から愛し納豆を売っている納豆屋さんがそんな文章を読んだら泣いてしまうに違いない。そもそも、「納豆が美味しいというのは本当か?」という記事なんて、あまりに内容が広がらなそうなので書くこともないのだが。

もしもぼくたちが幼い頃に教えられたように「他人を傷つけてはいけない」などという大人からの言いつけを厳密に守っていたら、もはやぼくたちは表現なんてできないのではないだろうか。スーツが嫌い、納豆が嫌いだと、みんながあまり違和感なく受け入れているものを自分だけがその感性に則って嫌っているのは居心地の悪いものだ。しかしその理由を論理的に自分で解釈し、表現し文章にすることで自分の感性が救われることもある。

ぼくたちはそんなどうしようもない思いを解放し、自分を救済するために「他人を傷つけてはならない」という言いつけを厳密に守っている余裕はない。そもそも、このブログをスーツ屋さんや納豆屋さんが見てくれている確率なんてきわめて低いのだ。そんな低確率の事象をいちいち想定していては、がんじがらめにされて世の中で何も言えなくなってしまう。

 

 

・「ぼくがベトナムを嫌いな7つの理由」

ぼくは東南アジアを周遊した時に、ベトナムという国と人だけがあまりに他の東南アジア諸国とは違いおかしな違和感を感じるほどだったので、旅ブログ「ミズイロノタビ」で「ぼくがベトナムを嫌いな7つの理由」という長々とした文章を書いた。

ぼくがベトナムを嫌いな7つの理由

もちろんこれをベトナム人が見たら悲しむことだろう。ベトナム人だってすべての人が同じ特性を持っているわけでもあるまいし、旅先でちょっとベトナムに行ったくらいでベトナム人ってこんな感じだったという感想を書くなんて反感を買うに違いない。ぼくだってベトナム人と仲良くしたいし、善良なベトナム人もたくさん出会ったし、しかしそれにしても変な人が多いと感じたのでこの文章を書いた。

その国が嫌いであるというのは本当か? 〜嫌いだったベトナム人〜

日本人のぼくがぼくの感性としてベトナムという国と人に対して感じた違和感を、隠すことなく明らかに表現するのは旅ブログを書く者としてのある種当然の具現化である。もしも表現することがなければ、ベトナム人が文章を見て悲しむという確率も0になるだろう。お人好しの人間ならば、こんなこと書かない方がいいだろうと思いとどまったかもしれない。しかしぼくは書いた。ぼくは旅において感じたその感受性を、正直に潔くありのままに表現して、創造したかったのだ。そしてそれが使命だとも感じた。

しかしなんとこの記事は人気で最近でも実によく読まれている。発表してだいぶ時間が経っているのでグーグルからの検索流入だろう。もしかして、ベトナム人が嫌いな人って実際多いのだろうか。ぼくの実際に旅した感覚だと、インターネット上で嫌われている韓国人や中国人よりもはるかに変な人が多かった印象だ。というか、韓国人も中国人も個人として付き合えば、日本人の最もいい友人であることに間違いはないと旅において感じる。

 

 

・人間が自我を持ち生命活動を営む限り、他者を傷つけるのは自然

人間が自我を持ち、自分を表現すれがその分必ず誰かを傷つける可能性が出てくるのは当然の成り行きである。

誰も傷つけたくないからと自らの生命を表現することから遠ざけて黙り込んで虚像の海を生きるか、誰かを傷つけても仕方がないと開き直りその生命を正直に表現に燃やし尽くすことで生きるか、どちらが正解ということはないだろうが、どちらが好きかという傾向はあらゆる命に宿っていることだろう。

 

 

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