Noと言われるととても寂しくなる。
Yesは肯定でNoは否定であるというのは本当か? 〜英語は事実へとよそ見する言語〜
・日本人にわかりにくい英語のYesとNo
・英語はぼくの方を見ていない
・日本語の「はい」と「いいえ」
・英語のYesとNoは事実へのよそ見
・日本語を喋る民族でよかった
・日本人にわかりにくい英語のYesとNo
日本人が英語でわかりにくいと言われるのは、YrsとNoの使い分けだ。
たとえばDo you like dogs?(あなたは犬が好きですか?)などの普通の疑問文ならば、普通に日本語と同じようにYes,I do.(はい、好きです)やNo,I don’t.(いいえ、好きじゃないです)などのように何の違和感もなく答えることができる。
しかしぼくがYou don’t like dogs,right?(あなたは犬が好きじゃないんでしょう?)と外人に尋ねた場合に、相手がぼくの言う通り犬が好きじゃなかったらNo,I don’t.(そうです、好きじゃないです)と答えられてしまい、相手がぼくの言う通りではなく犬が好きだったらYes,I do.(いいえ、好きです)と答えられてしまうので驚いてしまう。
この場合、犬が好きでない場合にはI don’t like dogsという事実のdon’tに引っ張られてしまい、最初に出てくる言葉はNoになってしまうし、犬が好きな場合にはI like dogsという事実に引っ張られてしまい、最初に出てくる言葉はYesとなり、これが英語という言語の性質であるらしい。
・英語はぼくの方を見ていない
しかしこのYesとNoの使い方は、日本人からすると違和感満載だ。ぼくが「犬が好きじゃないんでしょう?」と聞いて、相手が犬が好きじゃなかったらぼくは正しいのに、相手にはNoと言われて否定されている気分に陥ってしまうし、逆にぼくが間違っていて相手が犬が好きだった場合には肯定的なYesという言葉が返ってくるのはどうしても気がかりだ。
この場合ぼくは、相手の話者が“ぼくと”ではなく、“事実と”向き合って話しているのだという虚しさに気がつく。
・日本語の「はい」と「いいえ」
会話というものは普通、相手を見つめて相手と向き合ってするものだ。相手の言葉や相手の思いに注目し、日本語では相手の言うことが正しいのか間違っているのかを基準に会話は進んでいく。
日本語で「あなたは犬が好きじゃないんでしょう?」と尋ねたならば、相手はその質問して来た人と向き合い、その質問して来た人やその人の言っていることが正しいのか間違っているのかを常に考えている。その人が正しいのならば「はい」、間違っているのなら「いいえ」と答える。
犬が好きではない場合「あなたは犬が好きじゃない」という意見は正しいので「はい」と答えるし、犬が好きな場合は「あなたは犬が好きじゃない」という意見は間違っているので「いいえ」と答える。すべては質問者が正しいのか、間違っているのかを考えて、質問者を中心として「はい」と「いいえ」は使い分けられる。そんなときぼくたちは、相手が自分を見つめて自分と対峙して会話してくれているのだという一体感を感じる。
・英語のYesとNoは事実へのよそ見
英語の場合には、その人やその人の言っていることが正しいのか間違っているのかなんてどうでもいい。その人のことなどどうでもよく、重要なことは事実なのだ。
事実が「犬が好き」ならばYesで、「犬が好きではない」ならばNoと答えるまでだ。相手のことや相手の意見など無視し、通過して、英語の話者の視線は対話しているぼくではなく“事実”へと向かっているのだということに気がつく。英語で会話している場合、英語話者はぼくと向き合ってぼくと会話しているはずなのに、その視線はどうしようもなく“事実”という第3の世界へと向かっているのだ。
ぼくは英語で会話していると、ぼくの方を見て話しているのに本当は事実へとしか向いていないその意思や視線を感じ取り、孤独感に襲われることがしばしばある。
・日本語を喋る民族でよかった
ぼくは日本語を操る日本語話者に生まれて幸福だったと思う。少なくともぼくと向き合ってしゃべっているのに、“事実”という方向へよそ見をされてしまうような種類の冷たい言語ではないからだ。日本語話者がぼくと会話するときには、いつもぼくの方を向いてくれている。ぼくたちは言葉により、言霊を投げかけ、魂を向き合わせているのだ。