「勉強ができない方がいいんだ!」と言っても美しいのは…。
勉強ができない人が勉強のできることを否定できるというのは本当か? 〜優れろ〜
・学問を否定する文章「本を読めば賢くなれるというのは本当か?」
・学問をきちんと修めたからこそ初めて意味を持つ言葉たち
・勉強できなかった人が書く勉強を否定する文章
・嘘と偽りに捻じ曲げられた表現たち
・浮世に激しい転轍機を繰り出せる者
目次
・学問を否定する文章「本を読めば賢くなれるというのは本当か?」
以前「本を読めば賢くなれるというのは本当か? 〜武士道における知識〜」という記事を書いた。この文章の中では学問ができることや知識のあることにあまり憧れを抱かないぼくの性質を書き、その性質の源流を新渡戸稲造の「武士道」のなぞらえて、日本人精神に今も宿っているだろう「武士道」の中に求めた。新渡戸稲造の著書「武士道」の中には、学問や知識についてこのように書かれている。
”孔子と孟子の著作は、若者たちにとっては基本的な教科書となり、年配者たちの間では議論をする最高の拠り所となった。しかしこの2人の賢者が著した古典をただ知っているというだけでは、周囲の尊敬を得ることはできなかった。孔子の言動を記録した「論語」という書物があるが、その「論語」を聞きかじっているだけの人間をからかう「論語読みの論語知らず」というよく知られたことわざが日本にはある。
日本の代表的な武士である西郷隆盛は、本にかじりついてばかりいる学者を「書物の虫」と蔑み、江戸中期の思想家三浦梅園は、学問を臭いの強い野菜に例え、よくよく煮て匂いを取らなければものの役に立たないとした。「少し書を読めば少し学者臭くなり、もっと読めばもっと学者臭くなるだけで、いずれにしても好ましい存在ではない」と。つまり、知識が十分に消化され、その人の血肉とならない限り、それは本物ではないというのが梅園の言いたいことである。
学問しか能のない人間は魂のない人形と見なされ、知性は倫理観の下に位置づけられた。そして、宇宙にも人と同じような精神性と倫理性があると考えられた。イギリスの生物学者ハクスリーは「宇宙の信仰は道徳とは無関係である」と言っているが、その考えを到底武士道は受け入れないだろう。
武士道はこのように知識を重く見なかった。知識の獲得そのものは目的ではなく、知恵を身につけるための手段とされた。従って、知識だけで知恵がない者は、言われるがままに和歌や気の利いた文句をひねり出すだけの、便利なからくり人形でしかないと見なされた。知識は、それをいかに実生活で応用できるかが重要だった。このいかにもソクラテス的な考え方を最も明確に主張したのが、中国の思想家王陽明である。彼は「知行合一」、つまり知識は行動を伴ってこそ本物になるということを繰り返し説いている。”
・学問をきちんと修めたからこそ初めて意味を持つ言葉たち
このようにぼくが学問ができることや知識を多く所有していることに憧れを抱かない感性の根源を、新渡戸稲造の「武士道」にまで求めてそれを盾にしてまで文章を展開したが、このような文章を書いたのは、自分がきちんと学問を修めてきたという自負の心があるからである。
ぼくは中学校・高校と6年間ずっと学業成績で学年1位を取り続けてきた。このことを自分から書くのは美しくないようだが続きに伝えたいことがあるので敢えて書くと、これは客観的にどう見ても勉強をきちんとやってきた証だろうと思うし、たまたま1回学年1位になっただけならまだしもきちんと6年間それを継続させ続けたことには、ぼくにとって大きな意味があったように思う。
ぼくが言いたいのは、きちんと勉強をしてきて学問を修めてきた人だからこそ、学問のできるということを否定するような上記の記事を書いても、その文章が大きな説得力を持って人々に伝わっていくのではないかということだ。勉強ができる人や学問について悪く言うような記事を書いても、勉強をきちんとしてきた人がそれを言うからこそ初めて重大な意味を持たせられるような気がするのだ。
・勉強できなかった人が書く勉強を否定する文章
たとえば上記のように、勉強のできる人や学問を否定する文章を、勉強ができなかった人が書いたらどう感じるだろうか。どう感じるかは人それぞれだと思うが、ぼくはまったくその文章に共感できないだろう。なぜならそれは単なる負け惜しみの文章に感じられてしまうからだ。
勉強のできなかった人がずっとそれをコンプレックスとして心の中に持ち続けていて、だけどどうにか生きていかなければならないから勉強ができない自分でもなんとか自分だけは肯定してあげたくて、最後の悪あがきで自らの思想を婉曲して「勉強ができるだけの奴はダメだ!」「学問なんて大したことないんだ!」と叫ぶ文章を書いたとしても、まったく説得力がないどころか無様な感じさえしないだろうか。
本当はその人は勉強ができたくてできたくて仕方がなかったのに、結局どう頑張ってもできなかったから、勉強ができる人々を貶すような文章を作成する。それでは本人の本当の考えが文章にきちんと表現されていないどころか、本心がねじ曲がって逆の思考として表出してしまっている。このような文章に、読む価値などあるのだろうか。
・嘘と偽りに捻じ曲げられた表現たち
しかしこのような文章は実は世界中に溢れている。自尊心が邪魔をして自分の本当の気持ちを書くことができずに、自分がコンプレックスに思っている優れた人々を否定するような言葉の嵐。しかし実際は、その優れたものを最も羨んで尊敬している人はその人自身なのだ。
「学歴が高い奴にも使えない奴は多いんだ」「給料が高くたって人生の価値は金で測れるものなんかじゃないんだ」「社会的地位が高くたって責任が重すぎて疲れるだけだ」などと学歴を高くしたくてもできなかった、たくさん給料が欲しかったのにもらえなかった、高い社会的地位を手に入れたいのに叶わなかった者たちが大きな声で喚き、同じような種類の人間たちが小さく賛同するという集団の様子をインターネットの片隅で見たことはないだろうか。
表現はいつも偽りを隠している。言葉はいつも嘘をはらんでいる。成功しない自分を憎むことができずに、成功をさせない人間社会を恨むことにより世界は回っていく。負け惜しみや、悔しさや、恨みが人の心を捻じ曲げて、真実から遠く離れた表現を世界へと放出させていく。
情報が氾濫しているこの時代の中で、ぼくたちは本当に重要なものとどうでもいいことを賢く見分けなければならない。あたかも重要であるかのように見出しに書かれているそれは、果たして本当に閲覧するに値する価値ある表現だろうか。嘘と偽りに捻じ曲げられた情報を手にとってばかりいると、ぼくたちの心も魂も次第に穢れてしまう。本当に心の源流から溢れくる、清流のように美しい表現だけを掴みとり、心を美しく保つように心がけなければならない。
・浮世に激しい転轍機を繰り出せる者
この世には個人がどのように勝手に思おうとも、どうしても拭い去れないような当たり前の価値観が根底に潜んでいる。それは、勉強ができないよりも勉強ができる方がいい、スポーツができないよりもスポーツができる方がいい、イケメンじゃないよりもイケメンである方がいい、モテないよりもモテた方がいい、背が低いよりも背が高い方がいい、所有してないよりも所有している方がいい、健康じゃないよりも健康な方がいいという、本当に誰もが知らないうちから当然のように思い込んでいる基本的な価値観だ。
そしてぼくの美的感覚から言って、優れている方が実はダメなんだと否定的な表現を書いて浮世を驚かせるためには、発信は必ず優れている人の方から為されなければならない。劣っている方の人間から、優れている方が実はダメなんだと表現することほど無様なことはないように思われるからだ。
たとえばブサメンが、イケメンというのは世間ではいいと言われているけれど、実はこれこれこういう理由でイケメンなんかにはならない方がいいんだ!イケメンなんてそんないいもんじゃないんだ!!と声高に表現するような人がいたらどう感じるだろうか。みんな「ああ…なんかかわいそうに…」と心密かに思わないだろうか。そしてその人の表現は説得力を失っていくことだろう。
世間で思われている常識の優劣をひっくり返すような激しい転換の表現を発信するためには、常に優れている方に所属しておく必要がある。その観点からすれば、常識的に優れた人物になっておくことは、決して悪くはない選択肢だ。人生の幅を広げていくためにも、優れた側の人間に立っておいて決して損はないのだ。浮世に激しい転轍機を繰り出せるのは、優れた者の他にはない。