一番好きな服を着て 一番好きな私でいよう。
中島みゆきの「愛から遠く離れて」を徹底考察!一番好きな服を着て一番好きな私でいた方がいいというのは本当か?
・服は自分と他人と世界との境界線
・中島みゆき「愛から遠く離れて」
・人は服を着なければ生きられない動物だ
・個人的な服の幸福を犠牲にして集団の利便性は図られる
・一番好きな服を着て一番好きな私でいた方がいいというのは本当か?
・どうでもいいと感じることの気楽さと重要性
目次
・服は自分と他人と世界との境界線
ぼくは自分の着る服を、自分で選ぶのが好きだ。小学校の小さな時分から自分で着る服を親に選ばせることをせず自分自身で決めたがっていたので、元から服にこだわるという性質を持ちながらこの世に生まれて来たのだろう。
自分が素敵だと感じる服を着て生きることは、ある種の幸福である。またどのような服を着るかによって、自分自身をどのように世界へと表現し、他人に自分をどのような人間だと思わせられるかが変わってくるので、服を選び着るという行為は常に世界との全面たる対峙であり、他者の心を操り自分の印象を導くための緻密な策略と繊細な計算に満ちている。
自分自身の内面や精神世界を、服の持つ色彩や模様や形状でそのまま率直に抽象的に表現するのも情緒深いし、また自分が普段他者からこのように思われているだろうという予測を逆手にとってその全く逆のイメージで表現することによって世界にかすかな振動を引き起こすことも可能だ。服とは常に自分と他者との境界線であり、それゆえに繊細で緻密で興味深く、自分と他者との関係性さえ揺るがしてゆく。
しかし様々な計算や策略があったとしても、結局のところ最も大事なことは、自分の感性が素敵だと感じる服をまとって、自分を世界に表現することではないだろうか。本当のところどう他者からどう思われるかなんて決して重要ではなく、自分がどうありたいかが重要なのではないだろうか。
・中島みゆき「愛から遠く離れて」
中島みゆきの「愛から遠く離れて」という歌に、彼女には珍しく服の歌詞が出てくる
一番好きな服を着て 一番好きな私でいよう
いつかある日思いがけず 船が出るかもしれないから
愛からはるか遠く 離れて生きる時は
時計を海に捨てに行こう 永遠のリフレインに
・人は服を着なければ生きられない動物だ
服が好きな人であろうと好きでなかろうと、誰だって服と無関係で生きることは難しい。まさか服を着るのが嫌いだからといって、全裸で一生を過ごす人はおそらくいないだろう。人は誰でも、服と関わり合いながら生きてゆく。
普通に考えればお猿さんやゾウさんやペンギンさんのように、全裸で生きても何の問題もないように思われるが、人間は服を着ないで生きると公然わいせつという犯罪にすらなってしまうので注意が必要だ。どうして動物の中で人間だけ服を着なければ生きられないのかと不思議に感じるような気もするが、聖書の中には禁断の果実をアダムとイブが食べたので人間が裸が恥ずかしくなったという説があるらしいが、真相は定かではない。
服を着なければならないという運命をぼくたち人間が絶対的に背負っているならば、どうせなら自分が素敵だと感じる服を着る方がいいに決まっている。人間はいつ病気になるかもわからないし、いつ死ぬかもわからないし、どうせなら自分の感性が素敵だと訴えかける好きな服をまとって生きた方が心の満たされた人生を送ることができるだろう。その観点からいえば中島みゆきの”一番好きな服を着て 一番好きな私でいよう”という歌詞はもっともらしい表現だと言えるだろう。
・個人的な服の幸福を犠牲にして集団の利便性は図られる
しかし自分や周囲を観察してみると、人間というものはどうやら人生においていつもいつも自分の好きな服を自分の思い通りに着られる動物ではないらしい。みんな自分の好きでもない服を着て、自分を表現することなく、自分を押し殺しながら生きている風景が見受けられる。
その原因は、服が”所属”を表す手段として用いられるからではないだろうか。代表的なものは制服だ。自分がどのような集団に所属しているのか一目で他者にわかるために、所属の証である制服をまとって一日の大半を生きてゆく。小学校や中学校や高校の制服もそうだし、社会人になってからは会社の制服がある場合もある。信頼できる社会人の証としてスーツというわけのわからないいわば”社会人の制服”を着ながらサラリーマン生活を送る人は大勢いるし、医者だったら白衣を着ながら病院をウロチョロして生活しなければならない。
誰もがみんな”一番好きな服を着て 一番好きな私でい”たいはずなのに、そのようにして自分という人間を存分に表現しながら人生を生きたいはずなのに、自分自身という個人を世界に向けて表現することよりもむしろ、どのような集団に所属しているのかを判断しやすいという合理性に冒されて、個人の表現やそれに伴う幸福を犠牲にしながら、人間の集団の幸福や利便性のために服は利用されてしまっている。
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服とは本来、集団に支配されるために作られたものだったのだろうか。本当はもっと、個人的で芸術的で野生的なエネルギーに満ちあふれた表現方法ではなかったのだろうか。
・一番好きな服を着て一番好きな私でいた方がいいというのは本当か?
ぼくは今、医者という職業をやめて自分の感性と直感に従いながら旅を続けている。社会や病院という人間集団に所属している際には当然のように人間集団の平和のために自らの個人的な感性と幸福を押し殺し、”一番好きな服を着て 一番好きな私でい”るなんてことはできなかったわけだが、所属から外れることを達成した現在、”一番好きな服を着て 一番好きな私でい”ることは十分に可能だ。
旅をする格好がどのような服装であろうと咎める者などあるはずがない。ぼくは今、自分の好きな服を着て、自分の好きな自分自身のアピアランスで自らを世界に向けて表現しいている。それが達成された暁にはぼくは心から幸福になれるのだろうと思い込んでいたが、どうやらそうでもなさそうなところが人生の面白いところだ。
旅をしているといろんな経験をしたりいろんな場所によく行ったりするので、服がよく汚れる。しかし旅の最中にそんなに頻繁にすぐ服を洗えるわけもなく、自分が素敵だと思っている大好きな服に、旅のせいで汚れが付着して取れないという事案も発生する。もしかして旅をする際には、自分の好きな服を着ていると不幸になるのではないだろうか。
困ったことにぼくが素敵だと感じる好きな服は、結構高いのだ。そんな高くて素敵な服が汚れてしまうと、なんだか悲しい気分になって落ち込んでしまう。もしかして長旅には、どうでもいいと感じる服を着るのは一番いいのではないだろうか。どうでもいい服ならば、汚れてもなんの悲しみも発生せずに心が穏やかでいられる。素敵で好きで高い服を着るのは、旅が終わってからでもいいのだろうか。
・どうでもいいと感じることの気楽さと重要性
ぼくは今注目しているのは日本の地方のTシャツだ。地方のTシャツというのはなんだか面白く、これまでにも日本で人が住める最南端の沖縄県波照間島の「HATERUMA」と書かれたよくわからない猫のTシャツを買ってみたり、お遍路の途中では愛媛県で「ぽんジュース」と書かれた昭和風デザインのちょいダサTシャツを買ってみたりした。値段も1000円とか2000円とかで手頃だったし、重要なのは汚れても全く悲しくならずにどうでもいいやと思えることだ。
どうでもいいやと感じる物質や人間と暮らすことは、大切にしなければならないと感じる物質や人間と過ごすよりも気楽で自分らしくいられるので、案外どうでもいいというのは人生において重要なことなのかもしれない。これからもどうでもいいと感じるものと適度に触れ合いつつ、大切なものとどうでもいいもののバランスを図りながら興味深く生きてゆきたい。