与えうるものがなにひとつないぼくたちは。
与えるという行為が本質的だというのは本当か? 〜与える前の与えられる季節〜
・「与える」という行為の不安定さ
・与える前に与えられる季節を
・ただひたすらに与えられるという旅立ち
・与えると受け取るの中点
・「与える」という行為の不安定さ
ぼくたちすべての人々が幸福になるためには、人生の中で「与える」という行為に尽くすことが唯一の方法であるということを、ぼくはシベリア鉄道の旅の中で学び取った。トルストイの著書「人生論」を読み、その内容を味わったのだ。
しかしその後のロシアの北極圏の街・ムルマンスクで、ロシア人チベット仏教徒との出会いを通して「与える」という行為が不完全なのではないかという疑念を抱いた。「与える」という行為は、相手の「受取る」という行為が為されなければ、成立しない行為であることに気が付いたからだ。
ロシア人チベット仏教徒はトルストイの言うように、与えるという行為に人生を尽くしている精神的な人物だった。彼はぼくに木製のネックレスを与えようとしてくれた。正直に言えばぼくはそれを要らないと思ったのだが、ぼくが受け取らなければ彼の「与える」という慈悲の行為は成立せず、また自分が受け取る(=与えられる)ことで彼が与えられたような気持ちになるだろうと考えたぼくは、それを受け取った。
ぼくは与えられ、そして受け取ることで、まるで彼に与えたような気持ちにさえなった。しかしもしもぼくが受け取らなければ、彼は与えるという行為を遂行することができずに、少なからずさみしい思いをしたことだろう。与える思いは踏み躙られただろう。「与える」という行為は、そのように相手の受け取りに依存してしまうほど、脆く不安定なものなのだろうか。
・与える前に与えられる季節を
与えるというからには、ぼくが何かを持っていなければならない。ぼくがなにひとつ持たない存在であるのに、与えられるということはありえない。持たざる者は、ただ与えられるのみである。ぼくたちが人間の幸福を目指して、トルストイの言うように与える行為を遂行し続けるためには、まずは自分が持つということが必要なのだ。
もしも自分が無力感に苛まれていたならばどうだろう。自分はなにも持たない人間であり、自分にはなにひとつできることはないと思い込んでしなっていたならばどうだろう。そのような根深い闇の中にいたならば、もちろん与えるという行為に思いつきもせずに、ただひとりで闇の中を彷徨い歩くだけであるかもしれない。
人間の幸福のために、与える存在になるためには、まず自分が持っていることが必要だ。そのためには、自分を肯定し、愛することが必要なのではないだろうか。自分を否定し、虐げ、心を消耗させられてしまう呪いの闇から解き放たれて、光を降り注がれる瞬間を与えられるべきではあるまいか。
自分を愛するためには、まずは愛されることが大切だ。生まれたての頃に、親の愛情に降り注がれた魂は、その愛を頼りに人を愛することを覚えていく。そして人を愛する前の段階で自分自身を愛するのだ。自分自身を愛するということを土台として、他人を、そして人間を愛することにつながっていく。
それと同様に与えるためには、まず与えられることが重要だ。なにひとつ与えうることなく、ただただ与えられる神聖な時間。その時間を乗り越えることができてはじめて、与えるということを覚えた魂が旅立てるのだ。
・ただひたすらに与えられるという旅立ち
与える前には、与えられる雨を。愛する前には、愛される日々を。通り抜けなければ立ち上がれない。与えるという慈悲も、愛するという捧げも、その前の受動あってこそのこと。
自分になにもないというのなら、そのように思い込まされてしまっているのなら、まずは受け取らなければならない。植えつけられた欠乏の呪いを、解きほぐすための鍵は、自分自身の中に眠っている。決して他人が助けてくれはしない。空を眺めて待っているだけではならない。
旅とは、ただひたすらに受け取るということ。旅の中で、ぼくは与えうるものがなにもない。旅立ちの日には、最も軽い荷物を。自分に与えるだけの最小限の荷を携えて旅立つ。他人に与えるということを考慮してはいられない。ぼくがかろうじて与えうることがあるのなら、それは受け取るという行為のみ。
旅なんて愚鈍な行為だ。ただひたすらに与えれらるだけだ。人間に与えられ、世に与えられ、世界に与えられ、自然に与えられ、そしてぼくらはただ受け取っていた日々を思い出す。まるで赤子のような、少年の魂のような、与えられていた日々を思い出す。すべてはまた、与えうる人間になるため。すべてはまた、人を愛するため。
他人のためになることをただひたすらに与え続けながら、それでいて少しばかりの賃金を与えられ、生活せざるを得ない強制の衣をまとった労働。強制の海の中では、心から与えたいという思いとは遠く離れて、慈悲の心は波の彼方へと消えていく。ぼくたちが本当に与えたいと心から祈るためには、まず与えられる旅に出よう。無力となり、何も持たない存在となり、ただひたすらに与えられる雨を感じよう。
労働という強制の布の中に、慈悲という確かな思いを、与えたいという確かな心からの祈りを織り込むためには、ぼくたちはまず、旅のさなかで与えられよう。
・与えると受け取るの中点
「与える」という行為は不完全だ。ただ相手が受け取らないだけで、それは踏み躙られて終わってしまう。されど「受け取る(=与えられる)」という行為さえ不完全だ。与えられて終わるだけでは生まれてきた甲斐がない。
不完全な与えと、不完全な受け取りの岸辺の水に立ち、ぼくたちの心はただ揺れる。どちらの岸辺へとたどり着けばいいのかと心はまどっている。それならばいっそ、どちらの岸辺にも立たないことを選ぼう。どちらの岸辺さえ見渡せる、川の中島の上に立って、ただ水のさなかで心を揺らしながら、与えるという光と受け取るという光を感受しよう。
心たちよ、心たちよ、あらゆる中点を浮遊して、いつの日か無へと帰せ。