教育は個人の幸福のために行われるというのは本当か? 〜人間社会の利益を求める教育の正体〜
・孤独で過酷で尊い生命の問題集
・勉強を頑張りいい大学いい会社に入った先に人間としての幸福が待っている
・いい大学いい会社に入っても人々は大いに惑い幸福をまだ求めている
・勉強を頑張った先にもたらされるのは人間らしからぬ生活を強いられた部品
・「進化は万能である」から見えてくる教育の正体
・教育はいつも、個人ではなくそれを犠牲にした人間集団の幸福のために
目次
・孤独で過酷で尊い生命の問題集
ぼくたちは小学生から高校生にかけるまで、親や先生たちから勉強しろと口うるさく言われる。彼らは勉強するのは他ならぬぼくたちの幸福のためであり、いい大学に行き、いい職業に就き、自分の能力を人生の中で最大限に発揮させるために、そのための可能性を可能な限り広げるために、大いに勉強すべきだと推奨する。頑張って勉強したことが、結局は自分の血となり肉となり自分自身のために利益が返ってくるので、勉強は結局ぼくたち自身のためであるというのだ。
ぼくは世界の仕組みを知るための好奇心という観点から勉強は全く嫌いではなくむしろ好きだったので、勉強することもちっとも苦にならず、勉強しろと親や先生から言われるというよりも勉強で賞賛されることの多い人生だった。
勉強が苦しいという友人の意見なんて信じられず、もっと大きな生命的、人間的問題が人生には無数に横たわっているのに、勉強という答えの決まっており指導され学べば解決できる問題ごときに苦しいとのたまうなんてこの人たちは大丈夫だろうかと訝しく感じたりしていた。ぼくは勉強というものを通して世界を知ることで、生と死の問題やその他多くの自分自身の生命や人生の問題を解決する手がかりにする必要があると、直感的にわかっていたのかもしれない。
それらの問題はまだ人類が確実には解いたことのない問題であるように思われた。もしかしたら生命や人生の問題は人類共通の解答があってそれを答え合わせするように互いの中に見出すものではなく、人間がそれぞれ自分自身にしか与えられない独自の解答をさがして追求して発見する種類の問題かもしれない。それはとてつもなく孤独で過酷でそれでいて尊い生命の問題集だろう。
・勉強を頑張りいい大学いい会社に入った先に人間としての幸福が待っている
世界を知ろうとする人類の熱量が伝わってくるという観点から勉強そのもの自体が好きだったぼくからすると、勉強がいい大学へ入るため、そしていい会社へ就職するための単なる”道具”として見なされていることに違和感を覚えていた。そんなもの勉強の本質ではないような気がしたのだ。
しかしそれこそが周囲のほとんどの人々の中にある認識のようで、勉強を人類の純粋な情熱ではなく単なる”競争の道具”として利用し、いい大学に入り、いい職業に就き、いい人生を送るために、すなわち自分自身が幸福になるために、好きでもない勉強を苦しみながらやっているというような雰囲気が蔓延していた。好きでもないものをひたすらやらされ続けるなんてなんとも気の毒なことだが、勉強という情熱とその本質を見極めるための直感と好奇心が備わっていなかった人々の宿命なのかもしれない。
クレヨンしんちゃんを見ていても風間くんが塾を休みたい、息抜きしたいと言うと風間くんのママが叱った場面は印象的だ。「今日は大事な英語塾の日じゃないの!英語の勉強は1日でも遅れると取り戻せなくなるのよ!それはつまり、いい大学に入れない、そしていい会社に就職できないってことなのよ!だから、塾をお休みしたら大変なことになるの!わかるでしょう?いい子ね、トオルちゃんはいい子だからきっとわかってくれると思ってたわ!」このようにほとんどの人はいやいやながらに勉強を続けていくものであり、それがこの時代、この国に生まれた人間の運命であるようだ。
・いい大学いい会社に入っても人々は大いに惑い幸福をまだ求めている
しかし人々はそのような教育を受けて、いい大学に入り、いい会社に就職し、その結果として幸福な人生を送っているのだろうか。どんなに勉強や知識を蓄えても社会に出ればそのような次元の通用しない人間関係の問題が出てくる。むしろコミュニケーション能力の方がはるかに重要視され、これまで勉強を尊重しコミュニケーション能力を獲得する機会を持たなかった人々は悩んだり苦しんだりして人の世の中で戸惑っている。
インターネット上の意見を見ていても、労働したくないという気持ち、労働を嫌悪する発信に大きな共感が集まっているのが容易に見て取れる。彼らは全て勉強をサボり、いい大学に入り損ね、いい会社に就職し損ねたからこそ、労働に苦しみ人生のほとんどを占める労働ゆえに幸福感を得られずにもがいているのだろうか。いや、どんなに勉強を頑張り、いい大学に入り、いい職業に就いたとしても、人間の集団の中で生き抜くという苦しみは同様に与えられ、労働への嫌悪は増し、自分は幸福だと言い切れない人々が世の中に溢れているのではないだろうか。
教育を受け、勉強を頑張った結果として、本当に人々は幸福を得ることができるのだろうか。むしろ勉強を頑張った人々は、先生や教科書に言われたことをそつなくこなす優秀で便利な部品だと見なされ、人間の集団の中で大いに活用されている分、集団のために個人としての幸福感を下げられ削がれる結果となってはいないだろうか。
・勉強を頑張った先にもたらされるのは人間らしからぬ生活を強いられた部品
ぼくの場合は勉強を頑張ったというよりも勉強が好きだったので自然と得意になり、中学高校で学年1位を維持し続け、その結果として大学は医学部に入学し、医者という職業に就いた。しかし医者という職業は救急の当直当番の際には、夜中寝ずに延々と患者さんを診察し、そのまま朝が来ても眠る時間を与えられず1日中働かなければならないという過酷な労働環境だった。そういうものが医者という職業なんだから当たり前だ文句を言うなと思われるかもしれないが、普通に冷静に考えてこんな労働環境はおかしいと素直に感じる。
ぼくにとってこの労働環境は苦しいというほどのものではなく、若さもあるためか体を壊すこともなく順調にこなしてはいたものの、こんな働き方って人間としておかしいと感じることはもちろんあった。このような労働環境が今の時代に残っているのも信じられなかったし、先人たちはこのような環境に違和感を感じて修正しようとしなかったのかと思うとそこに怠慢を感じた。
医者というものは勉強が得意ではないと決してなれない職業だ。だから医者という人種は学生時代勉強が得意かもしくは得意じゃないのにものすごく頑張ったのだと考えて差し支えないだろう。ぼくが感じていたのは、学生時代に勉強を頑張ったのならば将来ご褒美が待っているのではないかということだ。それはすなわち労働時間は短く、それでいて給料は高く、人間らしい幸福な生活が最も合理的に送れるような将来が用意されても当然ではないかと思っていた。頑張ったのならばその報いを受けられるのは当然である。学生というものは勉強を修めるための集団なのだから、その中で最も頑張っていれば、最も人生に幸福を感じられる未来を用意されると感じてもおかしな意見ではないだろう。
しかし実際に勉強を学生時代に頑張った人々(医者)に与えられたのは、夜に全く眠らずに働かされ、その次の日も普通に労働し、そのような救急当直が週に1〜2回はあるという過酷な労働環境だった。この事実はぼくの中で意外性に富んでおり実に興味深い事例だ。勉強を頑張った先にあったのは人間らしい幸福に満たされた日々ではなく、むしろその優秀さと能力を最大限に利用され、体力と気力の続く限り最大限に労働させられるという、夜も眠れない人間らしからぬ生活を強いられた人間集団の部品としての人生だった。
別にそれが嫌というわけではなく、やりがいもあるし患者さんとの心の触れ合いも感動的なので医者という職業に全く不満はないが、ただ単純にその事実が面白いと思えるのだ。勉強を頑張って学問を修めた優秀さがもたらすのは、適度に労働し多くのお金をもらえ大いに自分らしく生きる時間と余裕が享受される人間としての幸福ではなく、むしろその優秀さと能力を最大限に利用され夜も眠らずに働くことを強いられる人間らしからぬ生活だったのだ。それってかなり興味深く、また若干の違和感を覚えはしないだろうか。
・「進化は万能である」から見えてくる教育の正体
そのような違和感の正体は、ある本と巡り会うことで見事に解かれたような気がした。イギリス人のマット・リドレー氏による「進化は万能である」という本である。この本には様々な形態の人類の進化の過程が記されている。宇宙の進化、道徳の進化、生物の進化、遺伝子の進化、文化の進化、経済の進化、テクノロジーの進化、心の進化、人格の進化、教育の進化、人口の進化、リーダーシップの進化、政治の進化、宗教の進化、通貨の進化、インターネットの進化に至るまで解説され、その中の「教育の進化」の部分はぼくの心を大いに揺さぶり、また納得させた。以下はその引用である。
”現代の学校形態はナポレオンがプロセイン王国を破った1806年にその起源を有すると考えられている。苦汁を嘗めたプロセインは厳格な義務教育プログラムを策定した。主な目的は、若者を戦争中に逃亡しな従順な兵士に育成することにあった。現在私たちが当然と受け止めている学校教育の特徴の多くは、このプロセインの学校で導入されたものだ。例えば習熟度を度外視した学年単位の教育法は、成熟した市民ではなく新兵を養成するのが目的と考えれば納得できる。”
”公教育の主な目的は教育水準を上げることではなく、粗野な児童を規則正しい市民に育成することにあった。教育は子どもたちのためではなく、国家のためにあると彼は明言している。
権威に対する服従、時間厳守、ベルの音に合わせて毎日を過ごすという価値観を教えこめば、生徒たちは将来の雇用に対する準備が整う。”
”あらゆる学校の管理において、なすべきことは生徒のためではなく、国家のためであることを忘れてはならない。”
”教育の真の目的は、トップダウンの幻想によって歪められていることがあまりに多い。公教育は、従順で愛国心を持ち、経済成長に貢献し、最新のイデオロギーに洗脳された国民の育成を目指すことがほとんどだ。公教育の目的が啓蒙であることはまずない。それはできる限り大勢の国民を画一的で安全な型にはめ込み、標準的な国民を育てて意見の相違や独創性をなくすことにある。これが、イノベーションや教育の進歩がひどく欠如していても、権力者が憂慮しない理由の一つだ。”
”教育は特殊創造説的な思考に支配されている。カリキュラムはあまりに杓子定規で、柔軟性に乏しい。教師は生徒や自分自身の力を伸ばすというより、試験に備えて教えるよう奨励される。教科書は自分で考えるのではなく模範的な考えを学ぶための指針に満ち、教育メソッドは学びよりも指導に詳しく、自己学習の可能性は無視され、政府主導型の学校教育が何の疑いもなく受け入れられ、ある教育支出が正当であるか否かは、個人ではなく国家が被るとされる恩恵の多寡によって測られる。”
・教育はいつも、個人ではなくそれを犠牲にした人間集団の幸福のために
ああやっぱりそうだったのかと腑に落ちることばかりだった。中学生の頃、ぼくたちは急に絶対に目上には敬語を使わなければならないと強制され始める。あの違和感をぼくは一生忘れることはない。ぼくはその時、自分という人間が自分らしく生きるひとりの個人ではなく、便利で従順で都合のいい人間集団の部品に組み入れられていくことを直感的に感じ取ったのだった。まさにそのような直感と同じような観念が、儒教的な敬語のみならず世界中の「教育」というものの中に含まれていたのだった!
教育を受けて最も成功した優秀な人々が、個人としての幸福を受けにくい労働環境を享受しているのも当然だ。彼らは教育に成功した最も都合のよい従順な部品として、個人の幸福のためではなく人間集団の平和と幸福のために身を粉にして労働するように心を形作られ、またそれが人間の生きるべき姿だという思いを植え付けられている。個人の幸福や健康を犠牲にしてでも、人間集団の平和と幸福のために身を滅ぼす。このような状態が美しく人間らしいと感じるのならばあなたの受けた教育も成功している。教育とは個人の幸福のためではなく、それを犠牲にした人間集団の幸福にこそ目的が集結させられているのだから。