お腹を空かせた虎に自分のお肉をあげよう!
自分の肉体を虎に捧げるブッダ「捨身飼虎」の衝撃!自分よりも他人を優先して生きるべきだというのは本当か?
・自分よりも他人を優先して生きるべきだというのは本当か?
・”自我”を持ってしまった人間は誰もが他人より自分を優先して当然だ
・自分の肉体を虎に捧ぐ!ブッダの前世の「捨身飼虎」の物語
・誰にもできないからこそ「捨身飼虎」は受け継がれている
目次
・自分よりも他人を優先して生きるべきだというのは本当か?
人の世の中では、自分のことを中心に自分自身を大切にすることを「自己中心的だ」「ジコチューだ」などと言って責め立てられる傾向がある。逆に自分よりも他人のことを思いやり、他人を優先して考えることは素晴らしく人徳の高い行為であると賞賛され、いつも褒め称えられる。それについて異を唱える者はこの世に少なく、誰もが自分の利益よりも他人の利益を優先することを褒め称えられて当然だと見なしているように見受けられる。
・”自我”を持ってしまった人間は誰もが他人より自分を優先して当然だ
しかし人間という動物が”自我”というものに目覚め、他人と自分は異なっているという意識を常に持ちながら生きているというのに、果たして自分よりも他人を優先するということが本当に可能なのだろうか。”自我”を持っているということは自分と他人との間に明らかな境界線を設け、自分と他人は全くの別物だという認識に目覚め、その上で自分という人間を最も優先して大切に考えるという使命を与えられたということだ。
この世には数え切れない数の人間が存在しているが、その中でもたったひとり、自分というものを最も思いやって大切に慈しむように生きて行くようにとぼくたちは指令を下され、自我を与えられた。自我を持っている以上、ぼくたちが他の誰よりも自分の生命や利益を最優先に考えることは当然の成り行きではないだろうか。もちろん自分の生命に余裕があるときには、惜しみなく他人に思いやりを与えればよいが、息も絶え絶えに必死に自分の人生を生き抜いて、生きるか死ぬかの狭間でもがきながら自分と向き合い生命を燃やし尽くすようにして真剣に不動明王のような顔つきで生きている最中であるというのに、他人の顔色を伺いながら他人に思いやりを与えないからと言って非難される筋合いはどこにもないだろう。
自分の意識がたったひとり自分の生命を最重要視して生きているのと同様に、Aさんの意識はAさんの生命を最も優先して生き抜いているし、B君の意識はB君を最も大切に考えているし、それぞれの意識には使命として守護を任されたたったひとつの運命的な生命があり、誰もが必死にその生命を守ろうと必死になって頑張っているのだから、いちいち自分のことを最も大切に考えるなとか、自分よりも他人の利益を優先して生きるべきだとかいう倫理的で教科書的で熱量のこもっていない的外れでチャランポランな定型文をぶつけて、必死にこの世を生き抜いている人々の邪魔をするのはやめていただきたい。
自分よりも他人のことを思いやり、自分よりも他人の利益を追求して生きろなどとこの世で述べている者たちは、自分がそのような生き方をしていると本当に信じているのだろうか。もしもそうならば大笑いである。本当にそのような生き方を追求したならば、その人の生命はとっくにこの世から消滅してなくなっていることだろう。人間は他の誰よりも自分のことを最も大切に思うという”自我”を与えられているからこそ、自分をこの世で必死に生かし続け、しぶとくたくましく厚かましく図々しくこの世で生き残ることができているのだ。
自分よりも他人のことを思いやっているとか、自分の利益よりも他人の利益を追求するなどという生き方は、この世の中で受けがよい理想的な生き方なのでそのように述べる者たちは後を絶たないが、本当にそのような生き方を実行したならばその人はすぐに死んでしまうので、そのような生き方をしていると言いながらしぶとくこの世で生きている人たちは、そのような生き方のフリをしているだけに過ぎない。自分を最も大切に考えて、自分を最も優先して生きているのに、自分は他人のことを最も大切に考えていますと偽りにまみれた虚言を吐きながら人当たりよく上手に世渡りしているに過ぎない。
しかしそんなことは”自我”を持ってしまった人間として当然の生き方なので彼らを責めるに値しないだろう。ただもう少しこの世でしぶとく生き続けている自分自身の姿を見直して、とんちんかんな発言は慎むべきではないか。
・自分の肉体を虎に捧ぐ!ブッダの前世の「捨身飼虎」の物語
自分よりも他者のことを本当に優先して考えたならどのようなことが起こるかは、アジアの中で神話として残されている。それは「捨身飼虎(しゃしんしこ)」という物語だ。ブッダの前世の姿として登場する薩埵王子(さったおうじ)は、お腹を空かせた母親の虎とその7匹の子供の虎のことを思いやり、自分の肉を捧げて彼らのお腹を満たしたというのだ!
ぼくはこの物語を、ネパールの山奥のチベット教寺院において、英語で書かれているのを発見したのだった。
・誰にもできないからこそ「捨身飼虎」は受け継がれている
本当に自分よりも他者を優先する生き方とはこのようなものだ。こんなことが、通常の人間にできるだろうか、いやできるはずがない(反語)。どんなにお腹を空かせた虎が目の前に出現したとしても、そうかそうかかわいそうにと思って安全に通り過ぎてしまうのが関の山だろう。間違っても自分の生命よりも虎という他者を思いやって自分の肉体を捧げようなどとは思うことはない。ぼくたちには自我があり、自分の生命を絶対的に守らなければならないという使命を誰もが担っており、虎の生命なんかよりも自分の生命を第一に考えるからだ。
逆に言えばだからこそ、そんなことは自我を持った人間の誰もがで実行きないからこそ、このように「捨身飼虎」という伝説にまでなって現在にまで受け継がれているに違いない。誰にもできなさそうな物語を作り上げ、だからこそその慈悲の光を人々に知らしめブッダの偉大さを説くという手法は非常によくできている。しかしそれはいつの世でも、ブッダのようにはできないことを示しているのだ。
それでもこの世で可能な限り他人に思いやりや慈しみを投げかけながら生きていくことは素晴らしいことだ。燃え盛るように真剣に自分自身と対立して必死に生きるしかなかった悲しい人生でも、他人の利益や幸福なんか脇目も振らずに鏡だけを見て生きなければならない運命が生まれたときから用意されていたとしても、無意識の夢の中でくらいは、他人の幸福に目を向けてみるのも悪くないかもしれない。