他人の役に立ちたいと願うことは素晴らしいことで、自分のために生きることは見下されるべき行為だと言うのは本当か?

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他人の役に立ちたいと願えば美しいけれど…。

他人の役に立ちたいと願うことは素晴らしいことで、自分のために生きることは見下されるべき行為だと言うのは本当か?

・人間は本質的に他人の役に立ちたいと願っているというのは本当か?
・他人の役に立ちたいからではなくお金という見返りのために労働は続けられる
・自分を生かすためにぼくたちは労働しお金を求めてゆく
・他人の役に立つためにはまず自分の役に立つべきだ
・自分の役に立つことと他人の役に立つことが異なるというのは本当か?
・自分のために生きるという使命と当然の成り行き

・人間は本質的に他人の役に立ちたいと願っているというのは本当か?

人間は通常、労働をしている、労働とはそのほとんどが、他人の役に立つことだ。他人の役に立つからこそそれは労働として成り立ち、労働に従事した分だけお金をもらって、お米を買ったりガス代を払ったり家賃を払ったりして人は生活していく。

人間は通常、労働をしているということは、人間は通常、人生で他人の役に立つことをして生活しているということだ。ということはつまり、人間は本質的に他人の役に立ちたいと願う性質を持っているような生物に思えてくるが、果たしてそれは本当だろうか。

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・他人の役に立ちたいからではなくお金という見返りのために労働は続けられる

もしも人間たちの前に神様が舞い降りて、今日からお前たちに十分なお金を与えるからもうお金の心配なんてしなくていいよと言われたならば、人間たちはどうするだろうか。人間たちはそれでもなお、労働の中にある「他人の役に立つ」という生きがいの感覚を求めて自らの労働を続けるだろうか。それとも神様から十分なお金を与えられるなら労働なんてしていても馬鹿馬鹿しいと考え、すぐさま労働を辞めるだろうか。

ぼくの予想では、後者の人間の方が圧倒的に多いのではないだろうか。神様からお金を十分もらえると決まってしまえば、わざわざ労働なんてしたくないと考える人がほとんどなのではないだろうか。

人々は他人の役に立ちたいという根本的な原動力があるから労働している訳ではなくて、ただ食べ物のため、自分が生きていくお金を稼ぐために労働しているのではないだろうか。けれど自分のために労働するのだと胸を張って言うとなんとなく聞こえが悪いので、「他人の役に立つ仕事がしたい!」などと体裁を取り繕って社会に飛び込んでいるだけではないだろうか。お金という生きる手段としての見返りがなければ、誰も労働という人助けに従事などしないのではないだろうか。

 

 

・自分を生かすためにぼくたちは労働しお金を求めてゆく

しかしそんなことは当然のことだ。ぼくたちはお金をもらわなければ人間らしい生活を維持できないようなシステムに支配された世界へと生まれついた。だから自分をこの世界の中で生かすためにお金を求めてゆく。誰だって自分を生かすという使命と本能に基づいて自分という存在を生きているのだから、自分のためにお金を稼ごうと行動するのは当たり前のことだ。

ほとんどの人間は労働してお金を稼がないと生きていけない。言い換えれば「労働しなければあなたを生かしはしない」という社会的脅迫の空気の中を、ぼくたちは必死に生き延びている。ぼくたちは自分が生きて行くためには、他人の役に立てと強要された社会システムの中に生きているのだ。

もちろん人間は他人の役に立ちたいというささやかな願いを多かれ少なかれ心の片隅に隠し持っているが、心からやりたいと願って自発的に行う無償の人助けと、社会システムによって強要された、給料という見返りを求め生きるために仕方なく行う人助け(労働)では、全く意味合いが異なってくるのではないだろうか。他人の役に立ちたいという人間として純粋な無償の美しい心たちが、労働の介入により混濁を来たして人間の本質を見えなくさせる。

 

・他人の役に立つためにはまず自分の役に立つべきだ

しかしそもそも人間は他人の役に立ちたいというよりはまず、自分自身の役に立ちたいのではないだろうか。自分の役に立ち、自分を生かし、自分の生命を整えることを達成して初めて、ぼくたちは他人の役に立つことができるのではないだろうか。

自分の役に立つ行動をおろそかにして自分が死にかけた状態でいるのに、他人の役に立ちたいと願う人などあるだろうか。自分が生きるのに必死な状態でいるのに、他人の人助けを意識している余裕などあるだろうか。ぼくたちが心の片隅に残されている他人の役に立ちたいという純粋でささやかな願いを叶えるためには、まず大いに自分自身の役に立ち、自分をこの世の中でふさわしく生かすべきではないだろうか。

 

 

・自分の役に立つことと他人の役に立つことが異なるというのは本当か?

しかし人の世では、他人の役に立ちたいと願えば素晴らしいと賞賛されるのに対し、自分の役に立ちたいと宣言しても褒め称えられないどころか見下され軽蔑されることが多い。他人の利益を追求することは模範的だと見なされるのに対し、自分の利益を求めることは欲張りだとか強欲だとか悪口を言われる傾向にある。しかし自分の役に立つことと、他人の役に立つことは、そんなにも正反対の反応をもらうべき真逆の行為なのだろか。

自分の役に立つことも、他人の役に立つことも、一人の人間の役に立つという観点からすれば全く同じものではないだろうか。自分というのも、他人というのも、平等な一人の人間だ。同じ一人の人間の役に立つという行為であるのに、どうして片方だけはやたらと賞賛され、片方は見境なしにけなされるのだろう。

たとえば目の前にAさんとBさんがいたとして、Aさんの人助けをしたとしても、Bさんの人助けをしたとしても、どちらも褒め称えられるだろう。それならば自分さんの人助けをしても、他人さんの人助けをしても、どちらも平等に褒め称えられるべきではないだろうか。人間たちは自分とか他人とかいう概念にやたらとこだわる傾向があるが、結局は自分でも他人でもただの一人の人間である。自分の役に立つことも、他人の役に立つことも、平等に褒め称えられるべきではないだろうか。

 

 

・自分のために生きるという使命と当然の成り行き

自分とはこの意識が任されたところにある肉体、他人とはこの意識が任されないところにある肉体、ただそれだけの違いだ。この意識がこの肉体を守るように、この生命を維持するように任されているのだから、自分の役に立とう、自分を生かせてあげよう、誰よりも最優先に自分を考えよう、誰よりも自分を大切にしようとするのは至極当然のことだ。なぜならこの意識はただひとつこの肉体の守護を任されているのであり、この肉体を守り、維持し、素晴らしい人生へと導いて行くという使命を担っているからだ。この意識以上に、自分について思いやってくれる存在が絶対にこの世にいるはずがない。この肉体の、この自分の幸福を追求することは自然の摂理である。

他人というのはこの意識の管轄外の人間だ。他人は他人でまた、その肉体を任された別の意識が存在するのであり、他人は他人で最大限その人自身を大切にするようにその人の意識が働けばいいだけの話だ。それぞれの肉体にはそれぞれの意識が宿っており、その意識や直感はその肉体を守ろうと感性を研ぎ澄まして生きているのだから、それを咎められる者は誰もない。自分のために生きよう、自分の役に立とうとするのは至極ナチュラルであり、人の世で言われているほどの悪事ではないのだ。

あらゆる意識が使命の通りに自分の肉体や人生を必死に守ろうとしているのだから、おかしな世の中の噂や洗脳に惑わされてその邪魔をすることはやめていただきたい。自分のために生きることはおかしいとか、他人のために生きることは正義だとか言うが、そのふたつは本質的には平等に賞賛されるべき同じ行為だ。必死に自分を生かすために徹底的に自分を助けて生き、その上で余裕ができたら他人の役に立ちたいという慈悲の心を他者へと発動させ生きていく、それでいいのではないだろうか。

 

 

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