ジコチューの悪意!自己中心的であってはいけないというのは本当か?

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自己中心的な人間だけがこの世に生きている。

ジコチューの悪意!自己中心的であってはいけないというのは本当か?

・「自己中心的」という言葉に潜む悪意
・自己中心的であってはいけないというのは本当か?
・人間は誰もが自己中心的な存在だ
・自己中心的だからこそ人間は生きられる
・日本語「いただきます」の神秘性
・もしも自己中心的だと他人に非難された時は

・「自己中心的」という言葉に潜む悪意

世の中には「ジコチュー」という言葉がある。「自己中心的」の省略形だ。「自己中心的」とはその言葉通り、自分を中心に物事を考えるという意味だが、不思議なことに言葉には、そのままの意味とはまた別の衣服をまとうことがよくある。

それはその言葉によって「いいイメージ」がまとわりついているか、「悪いイメージ」がまとわりついているか、だいたい元から決まっているということだ。たとえば「自己中心的」「ジコチュー」という言葉なら、人間世界ではほぼ100%悪口で使われている。「自己中心的」「ジコチュー」という言葉には、「自分を中心に物事を考える」というそのままの意味とは別次元で、「自己中心的」は悪い、「ジコチュー」は駄目なことという言葉への悪意が、人間の脳内ではあらかじめ設定され、その設定によって人間たちは会話を成立させているのだ。

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「あの人はジコチューだ。」「彼は自己中心的な人という噂だ。」という会話が、褒め言葉で使われることなんて絶対にありえない。それほどに言葉のまとっている衣服の意味合いは大きいのだ。「自己中心的」「ジコチュー」は、必ず人間の悪意をまとった言葉である。人間の会話や言葉の本質を理解するためには、辞書に書いてあるそのままの意味を記憶するだけでは足りない。必ずその言葉がまとう善意や悪意について知らなければならない。

 

 

・自己中心的であってはいけないというのは本当か?

人が浮世で人間たちから誤解を受けるように、言葉も人間たちから誤解を受ける。人が誤解を受けるということもさみしいが、言葉が誤解を受ける心もさみしかろう。果たして「自己中心的」であることや「ジコチュー」であることは、本当に人の世で言われているほど悪いことなのだろうか。

「自己中心的」という言葉は、「自分を中心に物事を考える」という意味から派生して「自分のことだけしか考えない」、「自分をいちばんに考える」、「他人に気を使えない」、「他人のことを考えられない」という意味合いまで呼び覚ましているようだ。

なるほど人間の世の中では「他人のことを思いやらなければならない」「自分を犠牲にして他人に奉仕しなければならない」という教科書に書かれたような正しさが充満しており、その教えにしたがえばその対極にあるように思われる「自己中心的」であるという言葉が害悪に違いないだろう。

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しかしそれは、その正しさが正しいという人間たちのまことしやかな噂や、それがいいと思い込めという教科書たちの言葉を、自分の脳内できちんと思考せずにただ宗教のように信じ込んだ場合の話だ。自分の脳でしっかりと最初から考えた時に、果たして「自己中心的」は害悪になり得るのだろうか。

 

・人間は誰もが自己中心的な存在だ

率直にぼくが申し上げたいのは、「自己中心的」でない人なんてこの世にいるのだろうかということだ。みんな「他人のことを思いやること」「自分を犠牲にして他人に奉仕すること」が美徳だと教え込まれているから、なるべく自分がそう見えるように振る舞おうと無理して体裁だけを整えているけれど、はっきり言って自分を中心にしない人間など、この世から消えてしまうのではないだろうか。

たとえば自分と牛さんがいたとして、自分の命の方が牛さんの命よりも価値がある、だから牛さんを殺して牛肉を食べようと、誰もが心の奥底でそのような自己中心的な思いを抱いているからこそ、ぼくたちは牛肉を食べることができるのだ。もしもぼくたちが本当に自己中心的ではない人間だとしたならば、自分のことを中心に考えずに相手の思いを、牛さんの幸福を心から尊重するのならば、ぼくたちは牛さんなど決して食べることはないだろう。

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それは豚さんでも、鶏さんでも、卵さんでも、人参さんでも、キャベツさんでも同じことである。目の前にある命が、自分のために死んでもいいのだと傲慢に自己中心的に考え、自分が世界で最も素晴らしく生き延びる人間だと腹の底で思い込んでいるからこそ、ぼくたちはこれまでしぶとくも生き延びることができたのだ。真に自己中心的でない人間がこの世にいるのなら、その慈悲深い仏のような人は何も食べることができずに早々と死に絶え、この世から消え去っていることだろう。本当に自己中心的ではない人間はこの世から旅立ち、自己中心的に物事を考えられる傲慢さと浅はかさを併せ持つ悪魔のような存在だけが、卑しくもこの世で生き延びられるのだ。

どんなに自分は思いやりがありますと上っ面で社会にアピールしようとも、自分は他人のことを中心に考えられる素晴らしい人間だと思い込もうとも、ここに生きて存在しているという時点で、自分は何よりも自分を中心に物事を考える自己中心的な人格ですと世界に向けて発信しているに等しい。この世のすべての人間たちがそのような様子で誰もが「自己中心的」なのだから、すなわちこの浮世では「自己中心的」は噂通りの「悪」ではなく単なる「通常」である。「自己中心的」は、この世のすべての人間の通常である。

 

 

・自己中心的だからこそ人間は生きられる

相手が牛さんではなく人間であっても様子は変わらない。ぼくたちは受験というものを経験するが、自分というものを中心に見据えるからこそ、受験に打ち勝って合格してやろうという意欲が沸き起こるのではないか。自分の夢や将来の生活は、他人の夢や将来の生活よりも価値がありより一層叶えられるべきだと確かに心の奥で信じるからこそ、受験に打ち勝って合格したとしても、他人を押しのけたための何の罪悪感もなく、ただ単純に歓喜することができるのではないか。

自分を中心にしない人間が本当にいるのなら、自分の夢よりも他人の夢の方が叶ってほしいと心から優しく願い、自ら進んで競争相手を勝たせるために、受験に負けに行くのではないだろうか。そして慈悲深いその自己中心的ではない人物は他人を思いやるあまりに、すべての受験に進んで負け、すべての面接に進んで負け、すべての競争に進んで負け、スーパーの食べ物さえ自分が買ってしまえば誰か買えなくて困るかもしれないと優しく他人を思いやり食べ物も買えず、何も食べられずにこの世から消滅してしまうのではないだろうか。

 

・日本語「いただきます」の神秘性

人間たちが浮世で噂しているとおり、「自己中心的」「ジコチュー」が悪であるのならば、この世に生きるぼくたちすべての生命は悪に染められる。なぜならぼくたちは全員「自己中心的」だからこそここまで生きて来られたからだ。しかしぼくたちはそのような罪悪感の意識に苛まれながら、この先を生きていくべきなのだろうか。

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日本語の「いただきます」という言葉は素晴らしい言葉であると感じる。たくさんの動物の命を、たくさんの植物の命を、奪い去ってでも生きていきたいという傲慢で自分勝手な情熱は生物である以上仕方がない。そんな命を奪い去る自分自身を、罪悪感で染める代わりに、ぼくたち日本人は食べる前に、「(いのちを)いただきます」と感謝することができる。

生きるという思慮深い罪に苛まれるのではなく、過去に殺してしまった数々の命に潔く“感謝”して現在を貫き、未来を生きていく。ぼくたち自分勝手で自己中心的なすべての人間たちは、そのようにして罪の意識を清らかに風のようにふり払い、爽やかに清々しく生きていくしかないのだろう。それが自己中心的で罪深いぼくたちの、どうしようもない運命に立ち向かう唯一の術だった。

 

 

・もしも自己中心的だと他人に非難された時は

他人から「あなたは自己中心的だ。」「ジコチューだ。」と責められると、その言葉の持つ悪意に溺れて、誰もが傷つくことだろう。しかし案じることはない。この世に生きている生きとし生けるものはすべて、自己中心的で自分勝手な存在だ。だからこの世に生き延びて来られたのであり、自己中心的であることは、ぼくたち生きている生命の通常だ。

「あなたは自己中心的な人間だ。」と他人に責められたなら、自分だって自己中心的だから今まで生き延びているくせに、それに気付かずに他者に向かって自己中心的だと非難するなんてなんと愚鈍で浅はかな人間だろう、そのような人間の浅薄な言葉なんて気にすることはないし取るに足らないと思い為し、何事もなかったかのようにやりすごそう。真理の言葉を語らぬ者の言葉を受け取っていられるほどに、人生は暇ではないのだから。

 

 

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