ぼくたちはいつからか、敬うことを強制される。
日本人は目上を敬っているというのは本当か? 〜儒教的尊敬の不都合な正体〜
・中学生から尊敬の強要は始められる
・目上に意見を言えばそれは反逆だと見なされる
・権力者に都合のよい敬いのシステム
・空海「儒学は無力である」
・真実の尊敬
・中学生から尊敬の強要は始められる
小学校から中学校に上がると、これまでとは違う様々な変化が起こる。ぼくがその中で最も印象的だったのは、目上を敬わなければならないと教え込まれることだ。
その教育は中学校1年生の頃から始められた。ぼくは人間というものは、年上だろうが年下だろうが、地位や権力があろうがそうでなかろうが、誰もが等しく優れた部分を持っており同時に愚かな部分も同様に持っているから、それらを相殺すれば誰もがみんな0(ゼロ)に落ち着き、誰もが平等であるという考えを持っていた。しかし中学校1年生から始まる教育はそうではなかった。なんと年が1年違うというそれだけで目上になれるらしい。そしてさらにぼくたちは目上を絶対的に尊敬せねばならず、その尊敬を示すために普段使いの言葉を敬語という独特の語形に変換させなければならないというのだ。
なんとおかしな制度を導入することだろうと中学生だったぼくは思った。人間は誰もが平等だというのはこの世界の基本であるはずなのに、そのような信念を無視して儒教に洗脳されたこの東アジア国家では、人間を目上と目下の二つに大別するらしい。この時点でぼくは直感的に真実から離れた大きな違和感を抱いていたが、さらにそれに加えて、敬語というシステムを強制させられるのだから、これはいよいよ怪しいと思った。何かおかしな洗脳や陰謀が、この国を取り囲んでいるのではないかと疑ったのだ。そしてこの国に蔓延しているおかしな尊敬の強要というものに関して観察していこうと、中学生の時に思った。
・目上に意見を言えばそれは反逆だと見なされる
その疑惑は長く生きれば生きるほどに確信に変わっていった。学生生活を終え、社会を経験し、なぜ敬いの強要が義務教育の中から始められるほどに重要な問題なのかが、次第にわかり始めていた。
この国では誰かを敬うということは、その誰かに逆らわないということだ。目上の者と意見が食い違っていたとしても、目下の者は自分自身の意見を世界に向けて表現することなく、目上の者の言うことに大人しく従ってしまう。それが当然で美徳だと中学生の頃から強く思い込まされているのだ。目上の者に自分自身の意見を投げかけたならば、この国ではそれは自分の意見の自由な表現ではなくて、目上に逆らった反逆者だと見なされてしまう。そしてその社会の中では非常に生きにくくなってしまう。
自分の生活が不都合になってまで、自分の意見を述べて自分を表現する潔い人間は非常に少ないだろう。目下の者は目上と目下という観念にすっかりとらえられ、自分自身を世界へ向けて表現して生きている意味を見出すという機会を喪失してしまう。敬語という尊敬を言葉にまで投入させるというシステムが、実際にはありもしない目上と目下という概念に、より濃厚な存在感を与えてしまう。
おかしな儒教の観念にとらえられ、せっかくこの世に生まれてきたのに、人々は自分自身を表現することさえできずに、まるで死んだように生きることを強要されてしまう。
・権力者に都合のよい敬いのシステム
そして目上目下のシステム、敬語の教養のシステムが最終的に目的とする場所は、”大きな力を持った者には逆らわない”、”目上の者には大人しく従う”という弱体化した日本民族の根性である。彼らの中にそのような根性を植えつけておけば、権力者にとってこんなにも都合のよいものはない。
彼らは決して、大きな力を持った者に逆らおうとはしない。帝には逆らわない、将軍には逆らわない、地主には逆らわない、国家には逆らわない。消費税が10%に引き揚げられようとしていても、フランスのように凄まじい暴動などは起こさずに、大人しく御上の言うことに従う。大切なことは争わずに生きること、大人しく生きること、目立たずに生きることと思い込み、生命の限り生き抜くことを忘れてしまう。
儒教とは本来、権力者が民衆を都合よく従わせるために使用された宗教なのではないだろうか。その怪しさや胡散臭さを中学生のぼくは直感的に感じ取っていた。なぜ自分の言いたいことが言えないのだろう、なぜ嫌なことを嫌だと言えないのだろう、どうして人とぶつかることや争うことが恐ろしいのだろう。そのように思い心がひどく迷っている人は、その迷いの根本にはどうすることもできなかったおかしな敬いのシステムが根付いているのかもしれない。
・空海「儒学は無力である」
空海は自らの著書の中で、当時日本を支配していた3大宗教、仏教、儒教、道教についての思想をまとめながら、儒教について次のように述べている。
“儒者よ、あなたは年長であるからと言って長幼の序をやかましく言い、そのしつけを核にして浅薄な思想を作り上げているが、それは錯覚である。時間にははじめというものがなく、あなたも、わたしも、生まれ変わり、死に変わり、常なく転変してきたものである。生きていることの秘密を知るについては、儒学は無力である。”
・真実の尊敬
ぼくたちは大人しく権力者の敷いた都合のよい尊敬のレールの上に乗り、争うことも自分自身を表現することもできずに、死んだように生きるだけでいいのだろうか。本当の尊敬とは、この国に蔓延している偽物のうわべだけのものとしては決して存在しない。尊敬は目上目下というひどく間違った観念を通してではなく、すべての人間へと与えるべき尊い思いやりの姿だ。ぼくたちは偽物から抜け出して、真実の尊敬へと接近するために心を放つ。