男がお洒落をしてはいけないというのは本当か? 〜華やかな女性衣装・地味な男性衣装〜

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ミャオ族の変な銀衣装着てみたい…!!!

男がお洒落をしてはいけないというのは本当か? 〜華やかな女性衣装・地味な男性衣装〜

・中国の少数民族に出会う貴州省の旅
・ミャオ族の衝撃的だった銀装飾
・ぼくは男なので銀装飾をまとえない
・人間世界では女性が華やかで男性は地味
・オスが華やかでメスが地味な動物たち
・ファッションという神聖な聖域
・FASHION PASSION
・FASHION ’n’ PASSION

・中国の少数民族に出会う貴州省の旅

ぼくは台湾を目指して中国南部を西から東へ移動した。まずは東南アジア一周を終えてラオスから中国雲南省に入り、ずっと憧れだった雲南省を心ゆくまで堪能した後は、中国の少数民族に出会うために貴州省の旅を計画した。

雲南省URL

 

・ミャオ族の衝撃的だった銀装飾

まず向かったのは、貴州省の少数民族、ミャオ族最大の村と言われる西江千戸苗寨だ。ミャオ族は、中国語では苗族と記される。西江千戸苗寨でミャオ族の独特の文化や人々に触れ、漢民族のこれとはまるで違った雰囲気に驚き感動したが、その中でも最も印象的だったのはミャオ族の女性の衣装だ。

 

彼女たちの普段着は、黒を基調とした服装に艶やかな花柄の刺繍が施されており、また頭には大きな一輪の花をさし、普段着でさえ華やかで上品に着飾っているミャオ族の服飾文化に感銘を受けた。

 

しかし衝撃的だったのは、結婚など特別な行事の際にミャオ族の女性たちが身につける衣装だ。それは普段着とは違い、野獣の角のような大迫力の銀装飾を頭に被り、さらにはとてつもなく大きく重そうな銀装飾の首飾りをかけて、輝かしい出で立ちをしながら華麗に歌ったり踊ったりしていた。ぼくが西江千戸苗寨を訪れた際には、本物の結婚行事があったらしく、男性たちは真ん中で伝統楽器の長い笛を延々と吹きながら、女性たちは輝かしい銀のアクセサリーを身にまとい円を描きながら舞を舞っていた。

なんてすごいド派手は衣装だろう!こんな衣装世界中でも見たことがない!今の時代、世界のどこを旅していても、みんな同じような格好をしていることが多い。やっぱり民族衣装って面白い!特徴的で伝統的なものを身にまとうことによって自分を表現できるなんて素晴らしいではないか。

 

 

・ぼくは男なので銀装飾をまとえない

ぼくは一瞬でミャオ族の民族衣装のとりことなり、またあの銀装飾がじゃらじゃらの服を着てみたいと思った。こんな面白そうな服、世界中でもここでしか着られないとわかっていたからだ。

しかし、ぼくの願いはあえなく打ち砕かれた。というか、もとより無理な願いなのだ。なぜなら、あのものすごい迫力の銀装飾衣装は、女性の衣装だからだ。貴州省のこんな辺境のミャオ族の村まで着て、この衣装を着られないなんて、男というものはなんて損な生き物なのだろう!ぼくは生まれて初めて自分が男でつまらないと思った。

それならば、ミャオ族の男性の民族衣装はどうだろう。女性ほどではなくても、何か面白い銀装飾など身につけているのかもしれない!見てみると男性の衣装は、別に悪いとは言わないが普通に地味だった。あの衝撃的なミャオ族女性の民族衣装の迫力には到底敵うまい。

 

・人間世界では女性が華やかで男性は地味

しかし人間という動物の世界は、いつもこんな感じだ。女性の方が身につけるものが華やかで麗しくお洒落を楽しんでいるという風潮があるのに対して、男性というものは比較的地味で目立たない格好をしている。女性の服に様々なスタイルや色があるのに対して、男の服というものは限られたスタイルで決められた色が選ばれていることが多い。

特に冬の季節になるとそれは顕著で、女性は様々な種類のコートを身にまといそのバリエーションの多さを楽しめるのに対し、男のコートというものは皆同じような格好で、色もブラックとかグレーとブラウンとかベージュとかネイビーとかそこらへんに限定され、ただでさえ豊かではないバリエーションの少なさにさらに磨きがかかっているような感じがする。磨きがかかっているというか、追い討ちをかけられているといった印象だろうか。

社会人になっても、女性がファッションを楽しんだり髪を染めたりするのは比較的許容されているのに対して、男の衣装は決まり切ったどこの西洋の民族衣装かもわからないような「スーツ」という変な衣装を身にまとうことを社会的に強要される。もちろんスーツの形状は統一的で、決まり切った地味な色を押し付けられる。男女平等が理想であるというのならば、男ももっと女性のように自分自身の感性を表現できるような服装をゆるされるべきではないのか。女性にゆるされて男性にはゆるされていないことも、この世にはたくさんあるように思う。

 

・オスが華やかでメスが地味な動物たち

しかしどうして人間という動物は、女性が派手でお洒落で、男性は地味だと決まっているのだろうか。動物界には、男の方がお洒落だという種類がたくさんいる。孔雀だってオスの美しい羽でメスを引きつけるし、ライオンだってオスの方が派手で目立つし、カブトムシだってオスの方が立派だと誰もが思うだろう。

友達とそのような話をした時に、動物では選ばれる性の方が派手になると聞いたが、それって本当なのだろうか。たしかに自分は選ばれると決まっているのなら相手の気をひくために派手にならないとと必死になるだろう。じゃあ人間は女の方が男により選ばれる…?絶対にそうとも言い切れないが、そんな雰囲気はたしかにあるように思う。

しかし美しく着飾ることが「選ばれる」という受動態のためだというのは、なんだか寂しい思いもする。たしかに女性の服やお洒落は「モテ服」などと言ってモテることを意識することが強調されているようにも見受けられるし、それが受け入れられているようだ。モテるとは、選ばれるということだ。人間が美しく着飾ることは、他人によりただ単に選ばれるためなのだろうか。

 

 

・ファッションという神聖な聖域

人間には、内面と外見がある。どんなに外見を覗き込んでも、宇宙のように深々とした内面を見出すことはできない。またどんなに内面を知り尽くしても、そこから外見を導き出すことはできない。ぼくたちは混乱する。見えるというものの中に、見えない何かが隠されていること。ぼくたちは感動する。見えないという闇の中に、見えるという鮮やかな表出があること。

ファッションは、見えるということと見えないということの境界線ではないだろうか。人間というものが抱え込む内面の宇宙と外見の物質を、ギリギリの地点で取り繕い、ぼくたちが引き裂かれることをかろうじて防いでくれる、神聖な聖域ではないだろうか。ファッションには見られるという事実と同時に、見せるという行為も含まれている。見られるという岸辺と見せるという岸辺を、ファッションという橋がつなぎとめる。

ぼくたちは、見られるだけでは味気ない。だからと言って、見せるだけでも物足りない。遺伝子が残してきた形状を、布の合間に包み込む。魂が旅してきた感性を、ささやかな色彩に照らし出す。生と死が織り合い、血と魂さえ交わって、あらゆる岸辺を流し込んで、ぼくたちはファッションに息の根を止められる。

 

 

・FASHION PASSION

あなたにとって服とはなんですか

たとえこの世の中を裸で歩くことが許されていたとしても
ぼくは服を着ることを選ぶだろう

それは自らを隠し尽くさなければならないという
ひどく受動的な強迫観念では決してなく
自らの深淵を世の中に向けて解き放たなければ生きられないという
ある意味狂気をも併せ持った能動的な情熱なのです

~誰からともなく与えられたPassionに
人は逆らうことができない~

服とは心の宇宙の外界への表出
本来ならば決して出逢うはずもない
自らの内側と外側が交錯する幻の交差点

そのひどい矛盾にこの身を浸すことによって
ぼくは覚醒することができる
どこまでも死んだように 眠ったように生きられるこの濁世において
目を開いて生きることができる

たとえこの世の中を裸で歩くことが許されていたとしても
ぼくは服を着ることを選ぶだろう

 

・FASHION ’n’ PASSION

外界は広がる
まるで宇宙のよう

内面は深まる
まるで深海のよう

外界と内面
決して交わることはない

どこかですれ違ってしまう
何かが行き違ってしまう

この自我は外界と内面の境界線
異界と異界を互いに映す鏡

 

内面を外界に排出しようとして
言葉を紡ぎ出したとしても
言葉が完全な内面を包み込みながら
この世へと生まれることなどありえない

外界を内面に送り込もうとして
器用に電気信号に置き換えたとしても
それはひとつの側面に過ぎない
ただ一面を感じているだけに過ぎない

 

交わる交差点はないだろうか
出逢うことを許された秘境はどこにあろうか

決して出逢えないことがこの自我に混沌を生み出す
決して交わらないことがこの自我に無秩序を差し伸べる

 

引き裂かれそうなの
いつだって壊れそうなの

だから創造するの

混沌に身を浸して
無秩序を友人として

不条理な生きる道を歩き出すの

 

外界と内面が隔たりを失って
その間にある柵を取り払って

外界=内面

になれたなら

 

ぼくはその柵のことをFASHIONと呼ぶ

その柵の上に尊い選択を乗せて
その柵の上に果てのない創造を託して

その根元はPASSIONに置かれる

 

 

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