“人それぞれ”という物言いが高尚だと言うのは本当か? 〜偽物の多様性と国際性〜

 

「人それぞれだからね」と言ってのける人間がぼくは大嫌いだ。

 

“人それぞれ”という物言いが高尚だと言うのは本当か?

・“人それぞれ”の思考回路
・国際的で高尚な言葉たち
・“人それぞれ”は常識の別名
・不気味な人々
・旅人と豊かな違和感

・“人それぞれ”の思考回路

“人それぞれ”という言葉には、不思議な力がある。それを言い放つだけで、自分は客観的な視点から物事をとらえることが可能ですよという、自らの理性的・科学的な人間性を他人へと見せつける力があるように信じ込まれているのだ。そしてそのような人間性は、高尚であると思い込まれている。それゆえに“人それぞれ”という便利でなんだか自分が偉くなったような気分になる言葉を覚えたての人間たちは、この言葉を頻繁に使用したがる。

例えば「ぼくはああいう考え方が嫌いだ」と嫌悪感を示す人がいたとする。そういう人に対しても、覚えたての人間はその言葉を使いたがる。「まぁ人それぞれだからね、そういう考えもあるだろうね。」

このような言葉を使えば、なんだか自分が物事を客観的にとらえられる立派な人間になったように錯覚する。「それを嫌う人もいれば、好きな人もいて、自分はそれには関係ないような境地で上から眺めているよ、あなたのように感情的、主観的に何かを嫌うような人では自分は決してないよ」とまるで見下しの気配すら感じる。自分が“人それぞれ”という言葉を使うだけで、自分は冷静沈着で素晴らしい人間、相手は主観的で感情的になりやすい人間であるように、人間としての格をマウンティングする動物のようですらある。

 

 

・国際的で高尚な言葉たち

例えば最近よく日本で見かける外国人観光客の人々。その人々の振る舞いには、当然日本人と違う様式のものも出てくるだろう。そのような人々の日本人から見て異質な振る舞いを見て「あれって面白いね」などと言うと「まぁ国によってその文化は違うからね」などと言って会話が終わる人もいる。

“人それぞれ”。“国それぞれ”。“時代それぞれ”。

すべての言葉の本質は同じようなもので、人でも国でも時代でも、個々にはそれ自身のものの感じ方や常識があるのだから、それを受け入れ尊重しなければならないという一見高尚な意見である。しかしその裏には、「おもしろい」「あれはおかしい」「あれは不愉快だ」などという違いから生み出される主観的に感じられる豊かな違和感や物事のとらえ方を野蛮で低俗なものだと決めつけ、そして客観的・科学的に世界を裁ける自分自身はそのような野蛮な人種では決してない、いわば“国際的な人間”なのだという傲慢な人間性が見え隠れする。

それらの言葉をただ単に使用するだけで“高尚な人間”になりうる立派な言葉たちは、非常に安易で使いやすく、思考能力の低い人々ほどこのような言葉にすがりつき使いたがる傾向が強いように見受けられる。

“人それぞれ”。“国それぞれ”。“時代それぞれ”。
“人によって違う”。“国によって違う”。“時代によって違う”。

一見使用する人々を高尚な人間に仕立てあげそうなこれらの言葉たちは、本当に一般に思われているほど、立派で、国際的な言葉たちなのだろうか。

 

・“人それぞれ”は常識の別名

ぼくは心から思うのだが“人によって常識は違う”、“国によって常識は違う”、“時代によって常識は違う”、そのような違いの存在こそが実は確固たる「常識」なのではあるまいか。それぞれに異なることは誰にでもわかりきった「常識」であり、人はそのような確固たる「常識」を起点としてスタートしてこそ、豊かで意義ある会話が成り立つのではないだろうか。

しかしあまり思考する能力のない人々は、このようなそれぞれに異なるということが「常識」であることすらわからずに、それぞれの常識が異なるという「常識」をわざわざ会話において掲げ、そして自分自身が高尚な会話のできる高尚な人間になったように思い込んでしまうのだ。その言葉を言い放てば高尚になれるだなんて、なんと手軽な人間的出世方法だろうか。

しかし、本当に高尚で思慮深い人々は“人それぞれ”であることはもはや当然のこととして、それは当然の前提としてはいるけれども、その上での違いを楽しむ会話を嗜みたいのではないだろうか。彼らは人間同士や、国同士、時代の異なりによって生じる、違いやその違和感を語り合うことにより、まるで自分自身を鏡で見るような、自分自身の発見をしたいのではないか。それによりどんなに国際的になった世界においても、決して同じではなり得ないことを見出しながら、自分とは何か、そして世界の様相を見抜きたいのではないだろうか。

そのような豊かな会話を展開するにあたり、“人それぞれ”というわかりきった発言はその妨げでしかない。高尚のようで低俗なその発言により、会話はもはや豊かな展開など見られないどころか、そこで会話は途切れ遮断され終了してしまう。“人それぞれ”とは、思考停止の言葉なのだ。それは決して高尚な言葉などではなく、人間における豊かな会話を妨げる愚鈍な物言いである。そしてそれを言い放ったが最後、それ以降の会話はすべて終了され、跡には言い放った者が手軽に高尚になれたという甚だしい勘違いだけが残るのである。

 

 

・不気味な人々

例えばどうだろうか。「今日は暑いねー」と誰かが会話したとする。それに対して「本当に暑いねー」や「え、そうでもないけれど」などと言いながら通常の会話は展開されていく。

ここで「今日は暑いねー」という言葉に対し、「いや、感じ方は人それぞれだから、暑いと感じる人もいれば普通だ、もしくは寒いと感じる人もいるだろう。」と言い放つような人がいたらどうだろう。ものすごく野暮な人間か、意思疎通の取れない人と判断されないだろうか。その上で「あなたは暑いと感じるかもしれないが、人それぞれなので、寒いと感じる人もいるのだから、そのように発言するのは低俗なことである」と付け加えられたならば、もはやこの人とは会話したくない。しかし“人それぞれ”という言葉を使うときにはいつでも、このような思いが暗に秘められ放たれているのだ。そして相手を低俗に仕立てあげることにより、自分がレベルの高い人間であろうとする、卑劣で狡猾なマウンティング行為である。

“人それぞれ”なんてわかりきったことなのだ。暑いと感じる人もいれば、普通と、もしくは寒いと感じる人は世界にいる。それはわかりきった上で、それを前提として会話しているのに、わざわざ“人それぞれ”だという常識を言い放ち会話を遮断するような人がいたら、人間としての豊かな会話すべてが成り立たなくなってしまう。人間の会話はすべて“人それそれ”が前提で成り立っているのだから、わざわざ“人それぞれ”と言って会話を遮断する行為ははなはだおかしい。

「今日は暑いですねー」と会話を始めた人に対して「ここは地球ですよ」と分かりきったことを言い放ち、まるで自分だけがそれを知っていて自分は偉いのだという顔をしている人がいたら非常に不気味だろう。しかし“人それぞれ”といい放ち偉そうな顔をしている者は、これと同じ部類である。

 

 

・旅人と豊かな違和感

どんなに異国を旅しようと、どんなに異物に触れようと、どんなに“国際的な人間”になろうと、決して“人それぞれ”などという思考停止で、愚かしく自己を制御してはならない。人は異なる、国同士の常識は違う、時代によって意識は異なる、そのような当たり前の「常識」を身につけた上で、それを前提として、どんなにさすらいの旅人になろうとも、少年のようにみずみずしい感受性を携え、その違いを享受し、感動し、その違いを大いに受け入れ、尊重し、その上で議論し、咀嚼し、嚥下することによって、人間の正体、あるいは自分自身の姿を鏡で見つけることが達成されるのだ。

そのような“豊かな違和感”を全身で受け止めてこそ旅人である。決して口が避けても“人それぞれ”などというまやかしの言葉に囚われてはならない。誰にでも感じられる違和感というものを、遮断し、抑え込み、自分にはその能力がないからと思考を停止し、それなのに小賢しく高尚になろうとするような卑劣な業を、決して身につけてはならない。

 

 

 

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