「我が強い」「頑固」「芯が強い」「意志が強い」の違いは?頑固な性格が短所だというのは本当か?

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「我が強い」「頑固」「芯が強い」「意志が強い」の違いは?頑固な性格が短所だというのは本当か?

・人間社会では、しばしば他人に性格を指摘される
・「我が強い」「頑固」「芯が強い」「意志が強い」は本質的には同じ言葉
・「我が強い」「頑固」「芯が強い」「意志が強い」人の特徴と、その短所と長所
・「我が強い」「頑固」「芯が強い」「意志が強い」の違いと、そこから見抜ける相手の心の正体

・人間社会では、しばしば他人に性格を指摘される

人間は世の中を生きていると、様々な場面で自分の性格を指摘される場面に出くわす。別に他人からどう思われていようと全く重要な問題ではないが、一応人間関係を保つためにそうかそうかとちゃんと聞いているふりをしてあげることも大切だ。

ぼくが学校の個人懇談で毎回先生から言われていたのは、性格が「マイペース」だということだった。自分では全然マイペースな性格だと思ったことがなかったのでとても意外だったが、その無自覚さこそがマイペースである証明だろう。

マイペースというのはのんびりしている、おっとりしているという意味だろうが、このブログを見ていただければわかる通りぼくは常に世界に向かって怒りを燃やしているような荒々しく激しい性格だ。ぼくの精神は憤怒相をしている不動明王と激しく呼応し、共鳴するほどだ。そのような根源的な部分や核の部分が見た目や態度には全く表れないで「マイペース」と評されるのは不思議なことだが、いずれにしても先生はぼくの本質をとらえることに失敗していたという可能性が高いのだろう。

 

 

・「我が強い」「頑固」「芯が強い」「意志が強い」は本質的には同じ言葉

しかし長らく付き合った人にはぼくの本質的な性格が垣間見えるらしく、ぼくはたまに「我が強い」性格だ、「頑固な」性格だと言われることがあった。また同じくらいの頻度で「芯が強い」性格だ、「意志が強い」と評されることもあった。

まとめればぼくはたまに「我が強い」「頑固」「芯が強い」「意志が強い」と評価されることがある。しかしこれら4つの他人からの意見は、言葉は違えど本質的には全く同じことを言っているのではないだろうか。これらの性格を持っている人の特徴とは、一体どのようなものだろうか。

 

 

・「我が強い」「頑固」「芯が強い」「意志が強い」人の特徴と、その短所と長所

まず第一に、確固とした自分の意見をしっかり持っているという特徴が挙げられるだろう。この自分の意見というものは、生まれつきの自分の感性に根ざす部分も多いが、それを元にして自分自身できちんと思考し尽くした結果としての意見であることも多い。それゆえに不動で、揺らぎ難く、他人の意見や評価に惑わされることなく、自分の中で君臨し続けている。それは「信念」とも言うべきものかもしれない。自分自身で考え抜いた意見をしっかり持っているということは人間としての長所ではあるが、他人からすれば自分の意見を聞き入れてくれない不都合な頑固者だと判断され、短所だと見なされる場合もあるだろう。

またそのような種類の人々は、日々様々な物事について多面的に考えながら生活を過ごしているので、他人からの洗脳や同調ではない、きちんと0から自分自身で創り出した世界観の中で生きていくという特徴もある。それゆえに世間の常識や正しさというものにとらわれることがなく、自分の感性の中で自由に幸福に生き抜くことができるという長所があるが、周囲から見れば常識外れの行動を取る人、協調性のない人として、人間社会の中では欠落した性格だととらえられる場面もあるだろう。

またそのような種類の人々は、自分のしっかりした意見を頑固に持っているので、なかなか他人の意見やアドバイスを素直に聞くことができないと思われがちとなるが、ぼくにはあながちそうでもないんじゃないかと感じられる。確かに自分自身でしっかりと0から思考して導き出した答えであるとするならば他人にどうこう言われようと無視してしまうが、自分がさほど重要だとは思わない項目、考えるのに値する価値を見出せない項目、別に考えなくても人生に大きな影響が出ないと思われる項目に関しては、他人の意見をきちんと素直に聞き入れ、受け入れる傾向があると思われる。その理由は、本当に心の底からどうでもいいからだ。どうでもいいことなど他人の意見に任せるに限る。どうでもいいことは他人に任せて時間と思考能力を節約し、自分の中で人生のテーマであると直感される重要な事柄についてを必死に考えて生き抜くのみである。

さらに言えば、自分の感性に基づいて完成させたしっかりした意見や価値観を持っていると、他人からどう評価されようが裁かれようが全く気にならなくなるので、打たれ強い人間性を保持していることも特徴として挙げられる。悪い噂を立てることによってその人を傷つけたい周囲の人々は、他人の意見を気にしない本人の様子を見て腹立たしくイライラすることもあるかもしれないが、他人の噂や意見や評価に心が惑わされないという点は完全に長所であると言えるだろう。世の中の苦しみのほとんどはそのような種類の迷妄から生じているわけだから、そこから抜け出していることは悟りほどに価値の高いものである。

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他人の評価を気にするべきだというのは本当か?

他人に流されないことは、現代を生き抜く上でも重要だ。自分の意見に自信がなくて他人や世間に流されやすくなってしまうと、流行だからとかみんながいいと言っているからだとかテレビで紹介されていたからだとか言って、無駄に自分のお金を消費させられ奪われてしまう。お金というものは自分の大切な生きている時間を他人への奉仕として差し出して代わりに手に入れた、まさに自分の生命の化身である。無駄にお金を奪われているということは、自分の生命の時間を奪われていることと同様だ。芯が強く、自分をしっかり持っていると、他人に惑わされることがなくなり、無駄に消費させられたりお金を奪い取られることなく、本当に自分にとって大切なことだけにお金を使い、人生を豊かに充実させることができるようになる。

 

 

・「我が強い」「頑固」「芯が強い」「意志が強い」の違いと、そこから見抜ける相手の心の正体

「我が強い」「頑固」「芯が強い」「意志が強い」に違いがあるとすれば、「我が強い」「頑固」は無根拠に曲げない意見を持っていること、「芯が強い」「意志が強い」はしっかりと自分で0から考え抜いた結果として曲げない意見を持っていることということだろう。

しかし「自分で0から考え抜く」という内面の思考過程や歴史が、他人なんかにわかるわけがない。他人から見れば「我が強い」「頑固」「芯が強い」「意志が強い」は全て同じと映るのだろう。ただその人の性格を、見下してけなしたいか敬って称賛したいかだけの違いだ。

目の前の人が自分の意見を曲げないとする。ムカつくのでなんとかしてこいつをけなしたいという場合は「あなたは我が強いですね」「あなたは頑固ですね」という言葉が用いられる。しかし目の前の人が確固とした自分の意見をきちんと持っていることを称賛したい場合には、「あなたは芯が強い性格ですね」「あなたは強い意志をお持ちですね」と言うだけだ。どちらも自分の意見を曲げないという観点からすれば人物像に何ら違いはないのに、その人に対して「我が強い」「頑固」と言えば見下す、「芯が強い」「意志が強い」と言えば尊敬の観念が発動するのは言葉の妙であり、摩訶不思議でもある。

結局は相手が自分を見下したいのか、尊敬したいのか、それが重要だ。相手が自分に対して「我が強い」「頑固」と言ってくれば、あぁこいつは自分をけなして見下して傷つけたいのだなとわかるし、「芯が強い」「意志が強い」と言ってくれば、あぁこの人は自分を尊重してくれているんだなと感謝するだけである。

「我が強い」「頑固」「芯が強い」「意志が強い」と言われて注目すべき視点は、自分がそのような性格をしていると思われたということではなく、相手が自分を見下したいのか、傷つけたいのか、敬いたいのか、尊重してくれているのか、その相手の人柄を見抜けるという点にある。相手の人柄を見抜いた上で「我が強い」「頑固」と言われた場合には反省など一切せずに、あぁこいつは自分を見下したいだけの人間なんだと密かに認識し、心の中で「我が強い」「頑固」の言葉を「芯が強い」「意志が強い」に書き換えるのみである。そうすれば相手の自分を傷つけたいという思惑を回避できるどころか、無駄に考えたり悩んだりする手間も省けるというものだ。

人生は短く、他人の自分を傷つけたいという悪意に付き合っている暇はないので、軽やかに彼らを無視して、本来自らの行くべき世界へと足を進めて行くべきである。

 

 

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