ぼくには年齢不詳のおじさんの親友がいます。
年が著しく離れているおじさんと親友になれるというのは本当か?
・日本に浸透する敬語という強制のシステム
・敬語のシステムにより年齢の離れた友情は育みにくい
・ぼくには年齢不詳のアラフォーおじさんの親友がいる
・ぼくと年齢不詳アラフォーおじさんとの関係
・ぼくはおじさんに敬語を使わない
・植えつけられたものを自ら乗り越えていくことの重要性
目次
・日本に浸透する敬語という強制のシステム
日本では年上の人と話すとき、強制的に敬語というシステムを用いることにより尊敬の念を示さなければならないと暗黙のうちに決まっているから、年上との距離を著しく縮めにくい民族であると言えるだろう。言葉により、壁を作り、階級を設け、誰もが平等であるはずの人間の間に偽物の隔たりをわざわざ持たせて、お互いの心が近づき合うのを阻んでしまうからだ。
せっかく奇跡的に同じ時代に生まれて、せっかく奇跡的に同じ国に生まれ、同じ言語を使っているにもかかわらず、ぼくたちはその奇跡に感動し喜び合うことなく、ただただ距離を保ち、偽物の尊敬を常に排出し続けている。
・敬語のシステムにより年齢の離れた友情は育みにくい
このような儒教的呪いの言語システムに侵されている日本においては、年の著しく離れている人との友情は深まりにくいというのは容易に想像がつく。英語や中国語ならば明らかな敬語がないから、相手がどんな年齢であろうと距離を縮め心を触れ合わせ分かち合うことができるのに、日本語という言語の都合上、敬語をきちんと使える常識的な人間であろうとすればするほど違う年齢の人々との尊い絆を築きにくい傾向がある。
・ぼくには年齢不詳のアラフォーおじさんの親友がいる
そんな窮屈な日本語という言語を扱う日本民族のぼくだが、実は年齢不詳のおじさんの親友がいる。年齢が不詳だなんて親友でもなんでもないのではないかと思われるかもしれないが、彼は「アラフォー」とだけ教えてくれて決して詳細を教えてくれることがなかった。アラフォーということは35〜44歳ということだろうか。なんと幅広い選択肢だろう!
日本人は儒教的な観念からかやたらと年齢を聞きたがる傾向にあるが、年齢なんて聞いて何になるというのだろうか。年齢という数字からその人間の価値を割り出そうとするなんて根拠のない愚かしく下劣な思想である。ぼくは肉体的古さを表す年齢という概念よりも、その人の心や精神の持つ成熟さを付き合いの指標にしていきたいと思う。
そのような思想ゆえに、ぼくは彼が「アラフォー」としか教えてくれないことをまったく気にしなかった。別に気にもならないし、特に聞きたくもないし、年齢に固執していつまでもしつこく聞きたがることこそ愚かな姿勢だと思ったのだ。それよりも重要なのは、彼という人間ときちんと向き合って語り合った先に見える彼の人柄の方である。
・ぼくと年齢不詳アラフォーおじさんとの関係
ぼくは年齢不詳のアラフォーのおじさんと毎日医師国家試験の勉強を一緒にしていた。毎日毎日おじさんと自習室を借りてホワイトボードに記憶すべき膨大な医学知識を書き出し、お互いに意見を出し合い暗記することを助けていた。
医師国家試験の勉強をしつつ人間としても向き合うこととなったおじさんはいつの間にか、ぼくのことを「親友」だと思っていると言ってくれるようになった。このように儒教的な観念が浸透し、しつこく根付いているぼくたちの民族において、年齢を超越して親友だと言い合える関係性を築けるなんて感動的な出来事だった。年齢不詳なので詳しくは全くわからないが、おそらく2回りほど年齢を超えた友情が誕生したのだろう。
普通ならば日本において年齢がこれほどまでに離れていると遠慮し合い、気を使い、敬語で話し、心の距離をきちんと縮めることなんて不可能だろう。年齢が離れているのに人間として向き合い、お互いに自分の意見を思いがままに主張し、また相手の意見を尊重し受け入れ、精神を美しく磨くという人間としてふさわしい作業をすることは、この国では異常だと見なされるに違いない。
しかしよく考えてみれば年齢が離れているというたかがそれだけの理由で、人間として向き合えないという儒の文化の方が実は異常きわまりないのだ。
・ぼくはおじさんに敬語を使わない
ぼくはおじさんに敬語で話すことは決してなかった。これは日本という国においてぼくの特殊性と言えるだろう。この国では中学校に入ってから、1歳でも年が違えばそれがどのような人物であろうと見境なく敬うべきだと徹底的に叩き込まれる。特に体育会系の部活に入っているならば、目上に敬語を使うということは絶対不可侵な法律となるだろう。
ぼくはそのような敬語の文化を中学校の頃から怪しいと思い、訝しく感じ、決してこのおかしな観念を自分の心の中に侵入させてはならないと努力してきた。周囲がどんなに洗脳されていても、自分がおかしいと思うその文化を受け入れることはできなかった。しかし敬語を使わないと日本社会では抹消されるので、生きていくためにきちんと敬語は使っていた。それでも不必要な場面では徹底的に使わないことを自分に課した。
おじさんはおそらく年齢は2回りくらい離れているけれど一応医学生として同級生だし、おじさんはアメリカ育ちのハンガリー帰りだったのでおじさんも敬語は嫌いらしく、ぼくという日本人が敬語をおじさんに使わないことをとても喜んでいた。ぼくは自分が心から正しいと思う行いをして、おじさんがそれに賛同し喜んでくれていることが嬉しかった。
・植えつけられたものを自ら乗り越えていくことの重要性
ぼくと年齢不詳のアラフォーのおじさんは、共に磨き合い一緒に毎日医師国家試験の勉強を頑張ったおかげで、きちんと合格することができた。ぼくは間違いなく合格できたのはおじさんと一緒に頑張ったからだと思っているし、おじさんもそのように思っているようだ。そして医師免許よりも、儒教にことごとく支配されている東アジアの島国において著しい年齢を超越した友情を築けたことを誇りに思う。
どのようなおそれに心が押さえつけられていようと、それが伝統的な文化であろうと、それが間違っていると心の奥底から自分の声が聞こえるのならば、倦むことなくきっぱりと否定し、闘い、自分の魂にとって正しいと思う光の方へ走っていくべきである。