スーツって、一体どこの民族衣装だろうか。
スーツを着た男性がカッコいいというのは本当か? 〜ぼくがスーツを嫌いな理由〜
・スーツを着た男性がカッコいいというのは本当か?
・スーツという美しくもない奇妙な民族衣装はどこ由来か
・スーツはおとなしく飼いならされた証明
・中島みゆき「背広のロックンロール」
・好きな色を身にまとえない男性の残酷な運命
・中島みゆき「愛から遠く離れて」
目次
・スーツを着た男性がカッコいいというのは本当か?
よく女の子の会話で、スーツを着こなしている男の人はカッコいいとか、スーツの似合う男性が素敵という意見を耳にするが、それって本当だろうか。別にそんなのは人の好みや感性の問題なので敢えて議論する余地もないことだが、ぼくは心の底でまったく賛成できないまま会話は通り過ぎていく。
そもそも、あんな制服のようなスーツに似合うも何もあるのだろうか。本当にスーツが似合う男性と、スーツの似合わない男性がいるのだろうか。ぼくは「うっわ〜この人スーツ似合わね〜〜〜」というような男性にまだお目にかかったことがないので、本当にこの世にそんな男性がいるのなら一目見てみたい。スーツって、どんな人にも似合うように作られているものではないのだろうか。
もしもスーツの似合う男性と似合わない男性がこの世にいるのなら、それはただ単にそのスーツの中身の男性が、イケメンかブサメンかの違いだけではないだろうか。女の子はイケメンがただスーツを着ていることを「スーツの似合う男性」と称賛し、ブサメンがただ同じようにスーツを着ていることを「スーツが似合わない男性」を非難しているだけではないだろうか。
・スーツという美しくもない奇妙な民族衣装はどこ由来か
ぼくはそもそもスーツという服が大嫌いだ。あのスーツって一体どこの民族衣装なのだろうか。なんとなく形式的に西洋の民族衣装っぽい気がするが、どうしてそんな縁もゆかりもない地方の民族衣装をはるか彼方の極東の日本民族が社会的に着なければならないと半ば強制されているのだろうか。
しかも、大して美しくもないし地味で野暮ったい衣装ではないか。どうしてあんなものを着ることが礼儀正しさを表したり、社会的な人柄をよくするツールとしてむやみやたらと拡散されているのだうか。あんなのを着るくらいなら、日本の伝統衣装を着ていた方がはるかに美しいのではないだろうか。この文章を書いているだけでも激しい怒りがこみ上げてくる。ぼくはスーツが大嫌いだ(2回目)。
衣装というものは、その民族的感性を示すための大切なアイデンティティーではないだろうか。ぼくは天皇陛下が普段からスーツをお召しになっているのもものすごく違和感を覚えている。日本の象徴なのに、どうして西洋的なスーツという変な奇妙な服を身にまとっていらっしゃるのだろうか。
その民族には、古来より伝わってきた民族的感性やその肉体に合った民族衣装があるはずだ。その麗しい民族衣装を捨て去り無視して、ヘンテコなスーツという西洋衣装を着せられている黄色人種とは一体なんなのだろうか。西洋的ヘンテコ・コスチュームが社会的礼儀の基準服になっている理由とは?!これでは東洋は衣装的に、植民地支配されているとしか思えない。しかも大して美しくもないスーツに支配されているのだから開いた口が塞がらない。どうして誰も違和感を唱えないのだろうか。もうすっかり洗脳された後なのだろうか。
・スーツはおとなしく飼いならされた証明
しかも普段着よりスーツを着ている男性が素敵という女性の意見もぼくは甚だ納得できない。
ぼくはスーツというものはサラリーマンに代表されるように、集団というものに部品として所属しなければこの世では生きていくことができないという儚い悲しみの象徴のように感じられてならない。そして集団に都合よく生命を使用されるために、個性を消され、表現も消され、制服のように統一された地味な黒や紺や灰色の色彩で全身をまとい、おとなしく飼いならすことを目的とした権力者のある種の道具のように感じられてならない。
別に集団に所属するのが日本の普通の生き方だし、一生懸命働いているサラリーマンの人々もとても立派で尊敬しているが、ぼくの感性がなぜかそのスーツの中に飼いならされたかのようなもの悲しさを感じ取ってしまうのだ。
・中島みゆき「背広のロックンロール」
中島みゆきに「背広のロックンロール」という歌がある。まさにスーツの歌である。
“うまく化けてるね見分けがつかないほどに
静かな人に見えるよどこから見ても
滾る怒り 滾る願い 抱え込んで 託し込んで”
“見破られないねその笑顔からは悲しみを
見破られないねその目つきからは悔しさを
100のうちの99まで譲ったなら何が残る”
ここでもスーツは、人間の本性を押さえ込んでおとなしくさせるための道具として描かれている。
・好きな色を身にまとえない男性の残酷な運命
どんな男性にだって、当然好きな色もあるだろう。激しい原色の赤が好きという人もいれば、ファンシーなピンクが好きという男性も当然いるだろう。そして誰にだって、自分の好きな服の形状くらいあるはずだ。しかしほとんどの男性は、自分の好きな色の服を普段からまとうこともできずに、自分の好きな格好をするこもできずに、若い時代のほとんどを過ごし、そして諦めのうちに死んでいく。
こんな悲しいことがあるだろうか。世界へ自分を表現できずに、おとなしく飼いならされて死んでいくこと以上に、惨めなことがあるだろうか。自分はこんな色が好きなんだ、こんな服を愛しているんだと体全体で叫べないほど、息苦しさを感じることがあるだろうか。
それ以上に重要なことが、世の中の男性にはあるというのだろうか。それは社会に促されるままにおとなしくスーツを着て、みんなで同じ色の好きでもない異国の民族衣装を不気味にまとい、きちんと稼働する歯車として認めてもらい、集団からはみ出さないように目立たず慎ましやかに生活を送り、家族のためにお金を稼ぐことなのだろうか。人間の生命にとって、それが最も大切なことなのだろうか。
西洋のおかしな民族衣装を身にまとうことが東洋で強制されるのも、いつまでも続くとは限らない。いつか自らの伝統的な民族衣裳の麗しさに気づき、やがて自らの民族衣装を東洋が社会的に認めた暁には、人々は昔の写真を見ながらぼくたちを馬鹿にするに違いない。東洋人なのに西洋が強かったばっかりに文化を支配され、西洋の似合いもしない奇妙キテレツな民族衣装を着させられている哀れなご先祖たちだと。
・中島みゆき「愛から遠く離れて」
“いちばん好きな服を着て
いちばん好きなわたしでいよう
いつかある日思いがけず
船が出るかもしれないから
愛からはるか遠く離れて生きるときは
時計を海に捨てに行こう 永遠のリフレインに”