喜怒哀楽の中で、怒りが最も美しい。
日本の不動明王とチベットの護法神は似てる?日本中に怒りが充満しているというのは本当か?
・ぼくは美しい怒りが好きだ
・日本の仏教的怒りの表現
・仏教以外にも日本各地には怒りの表現が溢れている
・日本一周の旅を通して、怒りは縄文的感性だとぼくは直感した
・日本の神々の「荒魂」の側面は、日本中にある怒りの表現と一致する
・怒りは土着的で根源的な民族のエネルギーを発露する
目次
・ぼくは美しい怒りが好きだ
喜怒哀楽の中でどれが好きかと問われたならば、ぼくは怒りと答えるだろう。普通ならば喜びや楽しみなどポジティブなものを選び取る人が多い中で、ぼくはなぜか怒りにひどく心を惹かれる感性を身につけており、それが自分でも不思議でならなかった。しかしどんなにおかしな感性だと笑われようとも、ぼくが怒りに魅力を感じる感性は不変だった。
怒りにはとてつもないエナジーを感じる。それは誰か特定の個人に怒りをぶつけるというようなみみっちくてくだらない浅はかな怒りではなく、もっと壮大に世界や宇宙や運命に向けて自分でもどうにもならない怒りがどこまでも果てしなく解き放たれているという感覚だ。そんな美しい怒りを具現化した仏像や文化がたくさんあると、ぼくは2020年の日本一周の旅を通して感じることができた。
・日本の仏教的怒りの表現
不動明王や愛染明王など、日本には怒りに満ちた仏像で溢れている。「明王」というのは古代インド由来の神々が仏教に取り込まれ、日本の仏像になったということを意味しているらしいが、旅していてもヒンドゥー圏では日本の不動明王や愛染明王のような激しい怒りの仏像を全く見なかったのが印象的だった。不動明王や愛染明王って、日本独特のかなり珍しい仏像ではないだろうか。
日本以外にもこんな風に怒りに燃えている仏像ってあるのだろうか。ぼくは今まで広くアジアを旅して来たけれど、不動明王や愛染明王のように美しい怒りに燃えている仏像を今まで見たことがない。アジアを旅していても見るものは、みんな穏やかなお顔の普通の仏像ばかりだ。日本でも穏やかなお顔の心静まる普通の仏像をいくつも見ることができるが、それと同じようなお顔の仏像は広く東アジア、東南アジア、南アジア、チベットでも普遍的に確認可能だった。しかし怒りに満ちたような仏像を見かける機会はなかった。
日本では不動明王や愛染明王ばかりではなく、四天王や十二天など特定の方角を守っている守護神たちも怒りの表情をしている。また仏教寺院の寺門を守っている仁王像や金剛力士像なども怒りの込められた迫力ある表情で邪悪な者を威嚇している。
また奈良県吉野の桜の時期にしか公開されない秘仏「金剛蔵王大権現」は青い顔をして怒りに満ちている珍しい仏像だ。普通怒りに満ちた仏というものは赤い色で表現されているものだが、吉野の山奥では巨大な金剛蔵王大権現が真っ青な顔をして怒りを世界に解き放っているかと思うとその神秘的な様子に感動すらしてしまう。ぼくは吉野のこの金剛蔵王大権現は一緒に一度は絶対に見た方がいいほどの素晴らしい秘仏だと思っている。
・仏教以外にも日本各地には怒りの表現が溢れている
また仏像ばかりではなく日本には怒りの権化が点在していると、日本一周の旅を通して感じられた。そのひとつは秋田県男鹿半島で有名な「なまはげ」だ。なまはげは正月に聖なる山から下りてきて民家を訪ね歩き、悪いことをしている人がいないか戒めながら町を巡回する神様だという。その迫力ある真っ赤な表情はまさに憤怒そのもの!不動明王などが憤怒相の代表とされ、日本の憤怒の表情は仏教的なもので外国由来のものかと思い込んでしまうになるが、実は7世紀に仏教が日本に伝わるずっと前から、日本には荒々しい怒りのエネルギーが充満していたのではないだろうか。そんなことをぼくはなまはげを見ながら考えていた。
また天狗も怒りのパワーに満ちている表情として印象深かった。写真は栃木県の山奥の古峰神社という天狗だらけの秘境神社!なぜ天狗は怒っている表情が多いのだろうか。調べてみても全くわからなかった。また群馬県にあるだるまだからけの達磨寺にも立ち寄ったが、だるまにもそこはかとない怒りの表情が込められているような気がした。ほんのちょっとだけかもしれないけれど。
また憤怒の表情とは違うけれど、島根県の伝統芸能「石見神楽」のヤマタノオロチ退治の時のオロチたちの動きが激しくて大迫力だった!オロチたちは口から本当に火を吐き、荒々しくウネウネとダイナミックに動き回り、まさにオロチは表情ではなくその動きそのもので憤怒や怒りを表しているような気がした。ご存知の通りその荒々しい怒りを、スサノオノミコトが鎮めるのだ。
・日本一周の旅を通して、怒りは縄文的感性だとぼくは直感した
ぼくは日本一周の旅をして直感したことがある。それは日本における「怒り」というものは、荒々しく原始的で土着的な「縄文的感性」を表してるのではないかということだ。ぼくはなぜか縄文時代にも心惹かれる感性を持っているので、自分の中で縄文と怒りが重なり合った時に妙に納得した気分に陥った。
怒りとは古代からの人間らしい荒々しさ、野生的な狂気、動物的な獰猛さ、原始的な純粋さ、土着的な根源性、燃え盛るような直感的感性の象徴だ。それはかつて2万年もの長い期間この日本列島を支配していた縄文的感性とそっくりそのまま重なり合う。縄文土器のメラメラと燃え盛る炎のような立体的で躍動的な造形も、内なる野生的な怒りの感性の表出として申し分ない。
社会の授業では大陸からやって来た弥生がそれまで日本にいた縄文を屈服させ、縄文的文化は排除され、米作りを伝えた弥生が日本を支配し始めたというが、果たして本当にそうだろうか。実際には弥生は縄文を消し去ることなど全くできずに、縄文的感性は日本列島に今なお持続的に脈々と生き残り続けており、その荒々しさや野生的感性や純粋さが、仏だろうが神だろうが民芸だろうがどのような形であっても、「怒り」という形となって日本全国に表出し続けているのではないだろうか。
・日本の神々の「荒魂」の側面は、日本中にある怒りの表現と一致する
日本では古代から自然そのものを神として崇める自然崇拝が盛んで、全ての日本人の祈りの底には政治的ではない純粋な自然崇拝の気配が流れているとぼくは感じる。日本の神様には2つの側面があり、穏やかで人々に恵みをもたらしてくれる「和魂」と荒々しく全てを破壊してしまう「荒魂」が同じ神様の中に共存しているだという。この性質はいつもは穏やかで豊かな恵みを運んでくれるのに、頻繁に地震が怒ったり台風が来たり火山が噴火したりして人々の生活をめちゃくちゃにしてしまう日本の大自然とそのまま一致する。
やはり日本人にとって神とは自然そのものなのだ。そしてぼくは日本人の祈りの根源に潜んでいる「荒魂」という神々の激しい側面が怒り狂う不動明王の感性や気配と一致するから、こんなにも他国と比べて怒り狂う仏像が多いのではないだろうか。もちろんそれは不動明王のみならずその他の明王像や、日本中で見られる様々な怒りの表現とも一致する。日本中で確認できた怒りの表出は、まさに日本人が古代から持ち続けてきた自然崇拝における「荒魂」の感性を失わずに瑞々しく保ち続けていることを示している。日本人はおとなしく礼儀正しいと言われるが、本当はものすごい荒々しさと根源的な奔放さを隠し持っている興味深い民族ではないだろうか。
・怒りは土着的で根源的な民族のエネルギーを発露する
ぼくが世界中を旅して、日本を取り巻く怒りの感性に最も一致するものを挙げるとしたら、それはチベット文化である。チベットには背後に燃え盛る炎を湛えた怒りに満ちた神々がたくさん描かれていて、この荒々しい怒りの姿はまさに日本が今なお蓄えている怒りの感性と合致する。日本人とチベット人は顔つきもそっくりだと言われるが、ぼくの中では日本とチベットはまさに美しい「怒り」という感性によって繋がり合っていると感じざるを得ない。
この怒りに満ちた神々は「護法神」と呼ばれ、元々仏教に敵対していたチベット土着の神々を表しているという。仏教が発生する前からチベットに存在し続けてきた神々がやがて仏教に帰依するようになり、仏教を守る存在として役割をあてがわれた。しかし油断すると土着の神々はその荒々しさを再度発揮し、仏教に背く神々となり得ることからチベットの僧侶たちは護法神に対する供養を怠らないように注意する必要がある。チベット仏教の寺院でよく演奏されている結構やかましい笛の音楽は、護法神を呼び寄せ再び送り返すものとしてなくてはならないものだという。護法神供養に怒りはやはり仏教ができるずっと以前からある原始的、土着的、根源的な民族特有の神や感性を指し示したものであるらしい。
日本の怒りもそれと同じというのなら、やはりその根源を縄文的感性に求めるのもあながち間違ってはいないのではないだろうか。土着の神々の上にしか成り立たない、仏教という上書きの世界観。権力者が民衆を支配しようとしてどんなに必死に異国の神を上から押し付けようとしても、土台として絶対的に君臨する燃え盛る民族として根源的な怒りの炎を決して消せはしないことが暗示されている。島根県で鑑賞した石見神楽における荒々しいオロチは野生的な縄文の象徴、スサノオノミコトは大陸からやってきた合理的で平面的な弥生の象徴だというのなら、弥生は縄文を打ち倒し、日本を支配することに成功している。しかし真実はオロチの荒々しい縄文性は日本の地下深くで永遠に生き残り続け、いつの時代になっても土台として日本人の感性を普遍的に支えているのではないだろうか。