必死の形相と、怒りの表情は、非常によく似ている。
不動明王が怒っている本当の理由とは?!不動明王は仏教に帰依しない人を威嚇するために怒っているというのは本当か?
・仏像は普通、穏やかなお顔をしている
・怒りの感情を大爆発させている「不動明王」の不思議
・密教伝来の風景 〜不動明王は大日如来の化身〜
・不動明王は仏教に帰依しない人を威嚇するために怒っているというのは本当か?
・不動明王のように怒りかと見まごうほどの形相で生命を歩め
・喜怒哀楽の中で、怒りが最も美しい
・四国お遍路の巡礼で不動明王が御本尊だった寺院の記事
・和歌山県高野山の記事
目次
・仏像は普通、穏やかなお顔をしている
仏像というのは、大抵なんとも言えない穏やかで安らかな表情をしている。悟りを開くということは世の中のことにいちいち憂い惑わず、このように永遠に穏やかな表情を保ち続けられることなのかと感心する。そのお顔を見て日本やアジアの人々は心に安らぎを得、そのような安らかな心を得たいと願い、仏像に祈りを捧げる。
人の世は憂いや迷いに満ちている。それゆえにぼくたちはいちいち泣いたり怒ったり嘆いたりしてうろたえながら生活している。いくら自分だけ穏やかな心でいようと努力してみても、他人が外から問題を持ち込んできたり、地震や津波や火事や大雨などの大自然が人間たちを否応なしに大いに惑わすことだってしばしばある。
困難や苦しみが津波のように押し寄せる人生の中において、人が心の平穏を保つことは難しい。けれどそのような心の動揺は、本来ならばないに越したことはないのだろう。本当ならば平穏な心を保ちつつ、誰だって安らかな気持ちで人生を送りたいのではないだろうか。そのような願いと仏の悟りへの憧れが、仏像の穏やかなお顔に投影されているように思う。
・怒りの感情を大爆発させている「不動明王」の不思議
しかし多くの仏像が穏やかなお顔をしている中で、なぜか背後に炎をメラメラと燃え上がらせて怒りの感情をこれでもかというほどに発露させている仏像がいる。「不動明王」がそれである。不動明王というのは不思議だ。仏像なのに一切穏やかな顔などせず、まさしくその真逆の状態で感情を大爆発させて、人々を睨みつけ威嚇している。
ぼくは世界一周の旅で様々なアジアの仏教国を巡ったが、このような怒りに満ちた仏像は仏教国でも珍しいものではないだろうか。小乗仏教の盛んな東南アジアではこのような怒りの仏像は見られなかったし、大乗仏教の中国、韓国、台湾でも同様だ。見られたとすればネパールやチベットなどのチベット仏教圏で、おそらく仏教が伝来する前の土着の神々が怒りに満ちている像や絵画があったのを記憶している。日本人の宗教的感性はネパールやチベットのそれと奥底で繋がっているのだろうか。
このような怒りに満ちた仏像が、なぜ日本にだけこんなにあるのだろうか。そして不動明王は、一体なぜ怒っているというのだろう。
・密教伝来の風景 〜不動明王は大日如来の化身〜
不動明王は、大日如来の化身であるとも言われる。大日如来といえば、密教において最も重要視されている仏様だ。大日如来は宇宙そのものでもあり、また細胞のひとつひとつにも内在していると言われる。あまりに巨大なものから極小のミクロの世界に至るまで、大小など超越して世界そのものとして、物質世界と精神世界に遍く君臨しているのが大日如来の特徴である。
密教は平安時代、空海によって唐よりもたらされた。密教というものはひとりの師からひとりの選ばれた弟子へと受け継がれる性質を持っていたが、なんと日本から来たばかりの留学生である空海が、唐の長安で恵果和尚から「我、さきより汝のくるのを知り、待つことひさし」と言われ、すぐさま密教を伝授されたという。こうして第七祖である恵果和尚から、第八祖となった空海へと正当な真言密教が受け継がれ、空海は密教を日本に持ち帰った。
正当な密教は唐から国を移り日本へともたらされ、密教信仰は平安時代から脈々と受け継がれている。日本は今でも高野山をはじめ密教信仰が盛んな国だ。不動明王は大日如来の化身であり、大日如来は平安時代に唐から日本へと移された正当な密教の本尊なのだから、不動明王が日本にしか存在しないのは当然の成り行きなのかもしれない。
・不動明王は仏教に帰依しない人を威嚇するために怒っているというのは本当か?
ではなぜ不動明王はあんなにも怒りの表情をしているのだろうか。
インターネットなどで調べてみると「不動明王は仏教を信仰しない人々や土着の神々を、仏に帰依させるために怒っているのだ」という回答がメジャーなようだ。大日如来のように穏やかなお顔で言ってもわからんやつには、不動明王のように恐ろしい怒りの形相で威嚇してでも仏教に帰依させてしまえという発想らしい。子供の教育においても、優しく言っても言うことを聞かない悪い子供にはきちんと怒ることも必要だ、それが将来子供のためだと考える親や先生も散見されるが、それと同じようなものだろうか。
しかしぼくはこの「不動明王は人々を仏教に帰依させるために怒っている」という世間一般の理由に、どうも納得がいかなかった。本当にそうなのだろうか。不動明王って、そんなくだらなくてせせこましくてみみっちい理由で怒っているのだろうか。ぼくはなぜだかわからないけれど昔から不動明王が大好きで、不動明王の怒りのお姿にとても心惹かれるのだ。しかしぼくが心惹かれ尊く感じる不動明王の怒りの本質は、仏教の帰依とか人々を叱るとかそんな点にあるものではないと感じていた。
ぼくが納得いく不動明王の怒りの理由を教えてくれたのは、真言密教の中心地・和歌山県の高野山だった。高野山には「霊宝館」という仏教芸術の美術館があり、いくつもの美しい仏像や曼荼羅などの仏教絵画、空海の資料などが展示されている。霊宝館に安置された荘厳な仏像群の中に、当然大日如来の化身である不動明王も存在していた。霊宝館の不動明王像の前にはこのような解説がなされていた。
「不動明王がこのような怒りの表情をしているのは、世の中の人を助けようと必死の形相をしているから」
この説明にぼくの心は、ストンと納得がいった思いがした。そうなのだ。不動明王は別に人々や土着の神々に向かって、怒りを投げかけているわけではなかった。そんなくだらない理由で不動明王が神聖な怒りを解き放っているわけがない。不動明王の「怒り」のように見えた表情は、実は「必死の形相」だったのだ。
ぼくたちだって物事に必死で取り組むとき、真剣にこの世を生き抜こうとするとき、どうしても意識しなくても自然と険しい表情になってしまうことだろう。正面から世界と対峙し、嘘偽りなく真剣にこの世を生き抜こうとしている「必死の形相」と「怒りの表情」との間には、どのような違いがあるというのだろうか。必死にこの世を生き抜こうとしている顔と、怒りに満ちた憤りの表情とは、実は同じものだと感じられてしまうのではないだろうか。誰もが信じて疑わない、不動明王が怒りに燃えているというお顔は、実は怒りなどなく、ただただ必死に生き抜こうとしているお顔ではないだろうか。
「絶対にこの世の人々を救いたい」そんな慈悲深い思いからつい我を忘れ、必死の形相になって険しい顔つきをしているだけなのに、それを”怒り”の表情だと人々から勘違いされ、仏教を信仰しない者たちを威嚇しようとしているとみなされているなんて、不動明王はなんて大きな誤解を受けている不憫な仏像だろうか!不動明王の本質は怒りではなく、”必死さ””真剣さ”が込められた表情の原因である、人々に対する慈悲深さの中にあるのに、一体この世でどれほどの人々が、不動明王の表情の中にきちんと彼の慈悲深さを見出しているというのだろう。みんなただ不動明王は恐ろしい形相で怒っている、まぁなんて怖いと思いながら急いで前を通り過ぎているだけではないだろうか。本当に慈悲深い者は、この世で最も誤解されてゆく。
・不動明王のように怒りかと見まごうほどの形相で生命を歩め
ぼくが不動明王にひどく心惹かれたのも、この怒りの表情に隠された”必死さ””真剣さ”を潜在的に感じ取ったからに他ならない。ぼくたちはただ、心臓が動いているだけで自分は生きているのだとただなんとなくぼんやりと感じている。しかし不動明王のように、自然と無意識のうちに険しい形相になってしまうほどに必死にこの世を生きることをしないで、果たして本当に人生を生きたと言えるのだろうか。まさに不動明王のように、激しい怒りの表情だと見間違われるほどに険しい表情を作り出しながら、真剣に必死にこの世の中をもがき生き抜いて初めて、生命を生きるということは価値と輝きを伴ってくるのではないだろうか。
せっかくこの世に生を受けたのに、傷つきたくないからとか、痛いのが嫌だからとか、見下されるのがつらいからとか、ぶつかり合うのが嫌だからとか、死ぬのが怖いからなどと言って、あらゆる危険からおろおろと逃れ、なるべく安全な道の方へ、自らを傷つけない方角へと逃げ込み、真剣な表情を作ることもなく、必死の形相になることもなく、生命を燃やすことなく人生を終えていく。そのような人生は確かに安全で、安定し、穏やかではあるが、それでは決して仏像のような穏やかな魂のお顔を手に入れることはできないだろう。
穏やかで悟りを開いた仏像の裏には、必ず不動明王が化身として隠れ住んでいる。まさに激しい怒りかと見間違われるほどに、必死の形相で真剣に人生を生き抜いてこそ初めて、仏像のお顔のように穏やかな悟りの境地を手に入れることが可能となるのだ。自分に嘘をつき、周囲の空気に合わせ、ぶつかり合うこともなく傷つけ合うこともなく、安全な国へと逃げ込む魂は、穏やかではあるが”真実の心の平穏”を手に入れることは決して叶わないだろう。
ぼくたちは傷つかないために、ぶつからないために、痛まないために、死なないために生まれてきたわけじゃない。傷ついてゆけ、ぶつかってゆけ、痛みにひるむことなく、死をおそれることなく、ただ必死に、ただ真剣に、傷つきながらでも、ぶつかった後でも、痛みに震えながらでも、死と隣り合わせでも、この苦しみの海の中でやがて息絶えた朝には、弘誓の船が迎えに来るだろう。
・喜怒哀楽の中で、怒りが最も美しい
喜怒哀楽の中で、怒りこそが最も美しいと感じる感性をぼくは持ち合わせている。その理由を、不動明王と高野山に教えられた気がした。
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