難しい文章を書く人が賢いというのは本当か? 〜難解な言葉で自分を守りたい者と真の賢者への道〜

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ぼくの文章は時々難解だと言われる。

難しい文章を書く人が賢いというのは本当か? 〜難解な言葉で自分を守りたい者と真の賢者への道〜

・たまに難解だと言われるぼくのブログ
・どんなにバカな人でも理解できるべきの空港の案内看板
・難しい言葉で自分を守りたい者
・多様性への道は賢者の道

・たまに難解だと言われるぼくのブログ

ぼくの書く文章は時々難しいと言われる。たしかに自分でもあまりに抽象的なことを書きすぎて伝わる人にしか伝わらないかなとか、自分の中に渦巻く違和感を言語化しきれなかったかなと思うことはあっても、ほとんどの文章は伝わりやすいものとして発表しているつもりでいる。

この前なんかものすごくお気楽で簡単だと自分で思っていた文章が、難解なので読めなかったという友人の発言を聞いて驚いてしまった。彼が難しいと言ったのは、ぼくのクレヨンしんちゃんの文章である。

ひろしがみさえにゲンコツやグリグリをしてもいいというのは本当か? 〜強き者、弱き者、あるいはそれを翻す者〜

自分の中ではこのクレヨンしんちゃんの記事ってものすごく伝わりやすいものだろうという自信があったのに、しかし客観的な感想は受け入れなければならない。開き直って、彼が頭が悪いからぼくの文章が理解できないんだと傲慢に思うことは愚かなことである。ぼくは、ブログの文章は、空港の看板のようでなければならないと思っている。

 

・どんなにバカな人でも理解できるべきの空港の案内看板

空港とは、様々な種類の人々が交わり合う特殊なエリアだ。異国の人も多く、現地の文字も読めない人もいれば、言葉のわからない人もいる、子供もいれば老人もいるし、高学歴の人もいれば、ものすごくバカな人もいるかもしれない。しかし、それらのあらゆる人に伝わるように、ものすごくシンプルに必要事項を伝えるのが、空港の案内看板の役割だろう。

空港の案内看板というのは、ものすごくバカな人にでも伝わるようにできているはずだ。バスならばバスの絵を描いて表示したり、荷物受け取りの場所ならカバンのマークで表示したり、難しい言葉を極力使わずに誰もがわかる平易な言葉を用いたりしている。空港の表示看板は、そこにいるすべての人に伝わるようにするために、最も理解力のない人に合わせて表現されている。最も理解力のない人に合わせておけば、もっと賢い理解力のある人には必ず理解されるだろうと予想されるからだ。そしてそのような最もシンプルに端的に物事を伝えている案内看板は、非常に多くの人に親しみを込めて頼りにされて見られている。

 

 

・難しい言葉で自分を守りたい者

ブログの文章というのもそのようなものであるべきではないだろうか。たくさんの人々に親しみを込めて見られるようにするためには、自分の表現したい事柄をたとえそれが高次元の難解な概念であっても、どのような人にでもわかるようにシンプルに端的に表現する必要がある。それが達成されることにより、初めて広く多くの人に受け入れられるブログが完成するのではないだろうか。

たとえば自分が知識のある立派な賢い人だと思われたくて、敢えて難しい誰も知らないような言葉を使おうとする人もいる。「あなたは強い人に反抗的ですね」という言葉を敢えて「あなたはルサンチマンを抱いている」と言えば、なんとなく勉強できる物知りな人に感じられないだろうか。しかし敢えて難しく珍しい言葉を使おうとするその行動の裏には、他人に賢く思われたい願望、ひいては自分があまり賢くないことに対するコンプレックスが垣間見られる場合もある。

“難しい言葉は自分を守ったかい
振りまわす刃は自分を守ったかい
降りかかる火の粉と降り注ぐ愛情を
決して間違わずにきたとは言えない”

難しい言葉は自分を守るための鎧ではない。そんな言葉で表現して自分を匿うよりも、誰でにもわかる言葉で適切に物事を伝えられる人の方が立派で賢い人なのではないだろうか。

これは医者の仕事に関しても言えることで、たとえば患者さんの発熱の原因が尿路感染症だとわかった時に患者さんの家族に対して難しい専門用語で「患者さんは尿路感染症なので入院して抗菌薬治療を開始します」と言うよりも、医療の素人の家族の人々にわかりやすいように平易な言葉で「患者さんはおしっこの道から細菌が入ってくる尿路感染症という病気になりました。入院して細菌をやっつけるための抗菌薬の治療を開始しますね」という方がだいぶ親切だし医者としてふさわしい発言だろう。

難しい言葉を使うことが、いつでも自分を賢い人間だと思わせるために役立つとは限らないのだ。

 

 

・多様性への道は賢者の道

このようにブログの文章に関して、たとえ高尚な思想を抱いていてそれを表現したかったとしても、最も理解力のない人にでもなるべく伝わるように、親切に平易な言葉で丁寧に伝えることが重要だろう。そうすることで読者の幅は広がり、アクセス数の向上またはブログの内容の厚みを増すことにつながるだろう。

もちろん専門用語をバンバン使ってそれを理解できる狭い人々の集団を狙ってブログを書くというのもひとつの方法だろうが、ぼくは生まれながらにして多様性を好む傾向があるので、いろんな人に自分の文章を読んでもらいたいと願うことから、誰にでも理解できる文章を心がけていこうと思う。そしてその多様性へとつながる道が、人を真に賢くしてくれる道であると信じている。

 

 

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