わさびが苦手だと日本で生きづらすぎる!パクチーやニンニクだけ入れてもいいか質問されるべきというのは本当か?

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なんでわさびを入れてもいいかどうかは聞かれないのだろう!!!あんなに変な味なのに!!!!!

わさびが苦手だと日本で生きづらすぎる!パクチーやニンニクだけ入れてもいいか質問されるべきというのは本当か?

・パクチーやニンニクだけ入れてもいいか質問すればいいというのは本当か?
・ぼくはわさびが大嫌い
・ぼくはシソが嫌い
・多数派に属する生きやすさ、少数派に属する不便さ

・パクチーやニンニクだけ入れてもいいか質問すればいいというのは本当か?

よくベトナム料理屋さんでフォーという麺類を注文すると「パクチーを入れてもいいですか」と聞かれる。ぼくはパクチーの味や香りを苦手だと感じたことが全くなく、むしろパクチーがないとフォーの味としては物足りないと感じられるので、もちろん入れてくださいと答える。そもそもぼくにとってパクチーの味わいはとても自然な味に感じられるので、パクチーが苦手だという人の味の感性を全く理解できない。

しかし「パクチーを入れてもいいですか」という質問はレストランなどでかなりの高頻度で聞かれるので、それだけ日本人にはパクチーの味に違和感を覚えたり苦手だという人が多いということなのだろう。そのような人たちは、パクチーが料理に入っていることが当たり前の台湾や東南アジアへ旅行に行ってもきっと食べることを楽しめないだろう。

またラーメン屋さんなどでは「ニンニクを入れてもいいですか?」と聞かれることがしばしばある。これはきっとニンニクを苦手な人が日本人に多いというよりは、これからの予定次第で口の中をニンニクの強い香りで満たしてもいいものかどうか店側から気をつかってくれているのだろう。このように日本では、パクチーやニンニクなど、ある特定の薬味などに関して丁寧に質問されるという文化が根付いている。

 

 

・ぼくはわさびが大嫌い

 

しかしぼくがいつも不満に思うのは、パクチーとはニンニクとか、ぼくの味の感性が全く苦手だと感じないものに関しては丁寧に入れてもいいか聞かれるのに、肝心のぼくが苦手な味に関しては日本社会では全く質問されないということだ。

例えばぼくはわさびの味が大嫌いだ。なぜ大嫌いなのかと聞かれてもよくわからない。自分の味覚の趣味や傾向なんて、合理的に他人に説明できるものでもない、ものすごく直感的な概念ではないだろうか。とにかく嫌いなものは嫌いなのだ。小さい頃から大嫌いだし、それは大人になっても変わらなかった。味の感性というのは不思議なもので、理由もなくこれは絶対に苦手だと自分の直感でわかる味がある一方で、例えばパクチーのように、他人が嫌う傾向の強い食べ物でも、どうして他人が嫌うのか全く理解できないほどに自分にとっては自然だと感じられる味も存在するのだ。もしかしたら味覚の趣味というのは、生まれる前から遺伝子レベルで決まっているのではないだろうか。

ぼくにとってはパクチーやニンニクなど、自分にとって違和感を全く感じない薬味を入れてもいいかレストランで聞かれるよりも、ぜひわさびを入れてもいいのかどうか尋ねてほしい。しかし、わさびを入れてもいいのか聞いてくれる店は、日本には皆無だ。それどころか、わさびが入っているのが当たり前、わさびが入っているのが標準だという空気が、日本中に蔓延している。ぼくにはこれがどうしても信じられない。あんな変な味のわさびが入っていることが基本となるなんて、日本の味覚というものが全く信じられない思いだ。

例えばお寿司屋さんでも、何も言わなければ必ずわさびを入れられる。こんなのぼくにとっては拷問やイジメに近いほどひどい最悪の状況なのに、わさびを苦手だと思わない日本人が大勢いるという理由からわさびが入っていることは基本となり、それに文句なんて言いづらい雰囲気だ。お寿司やさんなら何も言わなければわさびを入れられるということを慣習として存じ上げているから注文する際に「わさび抜きにしてください!」と一言言えばまだ済む話なのだが、お寿司ではない普通の食事の時に、おかずやサラダになぜかわさびが混ぜて使われていたりすると一気に食事するぼくの心は混乱に陥る。ぼくの味覚はわさびに敏感なのだ。ちょっとでもわさびが混じっていたりすると、即座にそれを感じ取り、心の中では拒否しながらでも我慢して涙ながらに食べたり、お茶で流し込んだりしてしのいでいる。

またスーパーマーケットなどでお寿司が売られている際も、店にもよるが大概の店は、わさび入りが基本となっている。わさび抜きが欲しい人はパックに「わさび抜き」というシールが貼られている商品を探さなければならない。しかし「わさび抜き」のお寿司は少量しか作られておらず、売り切れなどの時には、お寿司が食べたいのに買って帰れないという悲劇に見舞われる。

 

ぼくは今、静岡県の伊豆半島を旅しているのだが、伊豆半島はわさびの名産地らしい。ぼくにとってはわさびの名産地なんて地獄そのものだ。岡山広島山口福岡佐賀長崎大分宮崎島根鳥取兵庫京都福井石川富山新潟山形秋田青森北海道岩手宮城福島茨城栃木群馬長野岐阜山梨静岡と続けてきた車中泊の旅も終わりを迎えているので、伊豆リゾートホテルにGo To トラベルで泊まって旅の疲れを癒そうかと考えていたのだが、旅館で出るわ出るわのわさび料理たち!!!!!わさびの味を美味しいと感じる味覚を持つ人々が多く住まうこの日本において、わさびの味を受け付けない味覚を携えて日本人として生まれてきてしまった自分を憎むしかなかった。

しかしわさびってこんなに変な衝撃的な味なのに、パクチーのようにわざわざ入れてもいいですかと聞かれないことが、ぼくにとっては本当に不思議でならない。

 

 

・ぼくはシソが嫌い

わさびほどではないが、ぼくはシソの味も苦手だ。しかしシソに関しても大好きな日本人が多いようで、パクチーのように「シソを入れてもいいですか?」とは全く尋ねてくれない。そして遠慮なくシソの入った料理が出てきて、ぼくの心は悲しみに包まれるのだ。

一体どうしてぼくは他の日本人が好きだと感じる味を、ことごとく苦手だと感じる味覚を持っているのだろう。そしてなぜパクチーなど、他の日本人たちが苦手だと感じる味を全く違和感なく受け入れてしまうのだろう。別に深く思い悩むことでもないが、この味覚のせいで日本の食文化の中をやや生きにくくさせられているのは事実である。

 

 

・多数派に属する生きやすさ、少数派に属する不便さ

「パクチーを入れてもいいですか?」と聞かれるのは、パクチーが苦手な日本人が多いからだ。逆に「わさびを入れてもいいですか?」「シソを入れてもいいですか?」とは全く聞かれないのは、それらを好きな日本人が多いからだ。こう考えてみると、やはり人間が簡単に世の中を生きていくためには、多数派、マジョリティに属することが重要になってくるのだろう。社会や浮世は多数派の人間の集団の顔色を伺い、なるべく多くの人々が滞りなく世の中を渡りやすくなるようにできている。

日本においてわさびが嫌い、シソが嫌いなどと、多数派からこぼれ落ちて少数派、マイノリティに属してしまった場合には、非常に食について不幸や不便を感じることとなる。しかし既述したが、味覚というものは自分ではどうにも変えがたい直感的な部分があるので、この先の人生もこの味覚の趣味と付き合っていかなければならないということだけは明らかなようである。

わさびがあらかじめついていたらわさびを完全に取り除くことは不可能だけれど、わさびがなくてもわさびなんて後からいくらでも付けられるのだから、叶うものならば日本の標準が「わさび抜き」になってほしいものだが、今の日本の状況を鑑みても望み薄な願いだと言えよう。

 

 

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