鬼滅の刃の儒教的要素を徹底考察!長男だから我慢できるというのは本当か?

(この記事には広告が含まれる場合があります)

 

俺は長男だから我慢できたけど…!!!!!

鬼滅の刃の儒教的要素を徹底考察!長男だから我慢できるというのは本当か?

・アマゾンプライムで初めて「鬼滅の刃」を鑑賞した
・炭治郎「俺は長男だから我慢できたけど、次男だったら我慢できなかった」
・炭治郎「いくつですか?」「何歳ですか?」
・村田さん「俺の方が先輩なのに!」
・危ないときには死んだご先祖が守護して助けてくれる
・このブログの儒教的記事一覧

・アマゾンプライムで初めて「鬼滅の刃」を鑑賞した

先日「鬼滅の刃」というアニメをアマゾンプライムで1クール全話鑑賞した。子供たちに大人気だというから見てみたが、可愛いキャラクターからは予想もできないほど、あまりにも血みどろな物語なのでびっくりした!確かに面白いけれどこんなに毎回血が出てきたり、首とが肉体が引き裂かれたりして、子供達は怖くないのだろうか。こんなの見て夜中トイレに行けなくなってしまうのではないかととても心配だ!

「鬼滅の刃」の物語で気になったのは舞台が大正時代だからかもしれないが、古めかしい儒教的な観念が随所に散りばめられているという点だった。ここでは「鬼滅の刃」の物語に中で儒教的だった場面を見ていこう。

 

・炭治郎「俺は長男だから我慢できたけど、次男だったら我慢できなかった」

第11話「鼓の屋敷」の最後の戦闘シーンで敵に向かっている最中に主人公の炭治郎が心の中でつぶやいた「俺は長男だから我慢できたけど、次男だったら我慢できなかった」というセリフはかなり印象的だ。炭治郎はずっと骨折の痛みをこらえながらも我慢して戦ってきた自分自身に対してこのセリフをつぶやいているのだが、あまりに唐突で脈絡のないセリフなのでこれはギャグなのか真剣なのかわからずに見ていて困惑する。

「鬼滅の刃」全体に言えることだが、必死の戦闘シーンでこういう余計なことを考えているシーンが多すぎる!しかもあくまで真剣な表情でかなり余計なことを必死の戦闘シーンで考えているので、笑うところなのかツッコむところなのか受け入れるところなのか全くわからないのがこのアニメの大きな特徴だ。

しかし「長男だから」とか「次男だから」とか、かなり古めかしい観念ではないだろうか。ぼくは日本で生まれ育ったが「長男だから〜すべき」とか「次男だから〜だ」と言っている人なんて今まで一度も見たことがない。逆に儒教思想の強い韓国人の友達の中には「長男だから」とか「次男だから」とか当たり前のように言う人がいて、隣国でもやはり中国に近い韓国の方が、そういう儒教的観念が強く根付いていて全く違う文化なのだなと感じさせられた。

韓国人の友達によると儒教思想の強い韓国では、自分のお父さんやおじいちゃんに対しても絶対に敬語を使わなければならないらしい。自分の家族なのに敬語で話しかけなければならないなんて、そんなことは日本では考えられないことだろう。文化の違いといえばそれまでだが自分の好みの問題として、ぼくはそんな堅苦しい儒教の国に生まれなくてよかったと感じた。

那田蜘蛛山の十二鬼月のひとりである累(るい)の理想的家族の姿としての「父には父の役割があり、母には母の役割がある。親は子を守り、兄や姉は下の兄弟を守る。何があっても、命をかけて」という発言も、家族を階級的な秩序を持つものとしての儒教的観念が垣間見える。炭治郎の兄だからこそ妹の禰豆子を絶対に守ってやらなければいけないという家族の絆としての強い思いも、昔懐かしいレトロで儒教的な匂いがする。

 

 

・炭治郎「いくつですか?」「何歳ですか?」

「鬼滅の刃」の物語の中では随所随所で主人公の炭治郎が大人気ない人に対して「いくつですか?」「何歳ですか?」と聞くシーンが散りばめられていた。ここでも年齢によって序列や秩序を組み立てようとする古めかしい儒教的思想が見て取れる。またこの年齢ならばこうあるべきだという固定観念を植え付けられるようで堅苦しくもある。

年齢にやたらとこだわる日本人のおかしさ!たかが数字によって人を判断してもいいというのは本当か?

何歳だからこうすべきだとか、何歳だからこのようなふるまいをすべきだという強迫観念から、いい加減世の中は卒業すべきではないだろうか。今現在の日本のインターネットを見ていても、年齢と固定観念によって他人を見下し、蔑み、憎む発言で溢れている。誰もがこの年ならこのようにふるまうべきだと勝手に決めつけて、それに見合わない行為をした者には制裁を加えようと必死になっている。

しかし本来、何歳だからこのようにしなければならないということなど何ひとつないのだ。何歳であっても人は好きなことをしてもいいし、何歳からでも新しいことを始めてもいいのだ。それなのに古めかしい儒教の観念が、何歳ならばこうすべきだとまるで孔子が「論語」で説いた事項に当てはめるようにして決めつけ、日本人を年齢の檻に閉じ込めて動けなくしている。今の日本でも年齢的な植え付けはしきりに発動されているので、「鬼滅の刃」の舞台の大正時代などもっと年齢にこだわっていたのかもしれない。

その他にも善逸が正一くんに泣きついていると「年下にすがりついて情けないと思わないんですか?」などと言い放たれて打ちのめされるのも、儒教的な年齢秩序を感じさせられた。年上とか年下とか全く関係なく、ただ純粋に善逸のヘタレ具合が情けないのでは感じたのはぼくだけだろうか。

 

 

・村田さん「俺の方が先輩なのに!」

第15話で村田さんが無礼な態度をとる伊之助に向かって放たれる「俺の方が先輩なのに!」というのも濃厚な儒教的発言だ。しかもこの発言は今現在の日本においても大いに発動されている儒教的観念にのっとっている。

少し年上だったり少し学年が上だったりするだけで「先輩だから敬語を使え」とか「先輩だから敬って当然」とか「先輩の言うことを聞け」というようなおかしな儒教的階級社会に組み込まれていくのが日本社会の実情である。儒教的階級社会に支配されているのは、大正時代においても令和時代においても全く変わらない。

 

 

・危ないときには死んだご先祖が守護して助けてくれる

ご先祖様が死んでも自分のそばについていて常に守ってくれていると感じるのは、まさに儒教的観念だ。仏教であれば輪廻転生で生まれ変わると見なされるので、死んだ先祖は自分からはるか遠く離れて自分とは関係のないところで新しい人生を始めていると考えられる。死んでからもこの世のどこかに止まりご先祖が自分を見守ってくれていると多くの日本人は心のどこかで感じていると思われるが、これはまさに中国古来の「儒」の死生観が日本人の精神にも影響を与えていることを示している。

「鬼滅の刃」の物語の中でも、ピンチの時には死んだご先祖や家族が突如として現れて助けてくれたり状況を切り抜けるヒントをくれたりする。第19話の那田蜘蛛山で炭治郎が十二鬼月のひとりである累と戦っている際に、かなり強い累に炭治郎は絶体絶命のピンチに陥るが、走馬灯の中に死んだお父さんが出てきて幼い頃に教わったヒノカミ神楽の舞を思い出し、そこから新しい「ヒノカミ神楽 円舞」という強力な技を繰り出す。また蜘蛛の糸に巻き取られ気を失い眠っていた禰豆子のもとに死んだはずのお母さんが突然現れ「禰豆子、禰豆子、起きて、禰豆子、お兄ちゃんを助けるの、今の禰豆子ならできる、頑張って、お願い、禰豆子、お兄ちゃんまで死んでしまうわよ」と禰豆子を起こし、禰豆子が「血鬼術 爆血」という技を繰り出すことで炭治郎を助ける。このように死んでもご先祖さまや親はいつまでも子供たちを見守ってくれており、いざという時には生きている者を助けてくれるというのは、日本人としての自然な感情であり、それは儒の思想に由来するものと考えられる。

また第3話で岩を刀で切り裂く修行をするときも、どうすればいいのか全く見当のつかない炭治郎のもとに錆兎と真菰というすでに死んだ子供達の幽霊が現れて、炭治郎が岩を刀で切り裂くのを見守り助けてくれる。第4話では鬼殺隊の最終選別において鱗滝に深い恨みを持つ異形の鬼に襲われ炭治郎が気を失ってやられそうになったときも、死んだはずの弟の竈門茂が起こしてくれる。

このように儒教的要素が随所に散りばめられている「鬼滅の刃」であるが、大正時代の古めかしいレトロな儒教的観念がこのアニメにどうしようもない懐かしさの香りを日本人に与えていることも事実だろう。もしかしたらその古めかしい懐かしさが、人気の理由のひとつなのかもしれない。

 

・このブログの儒教的記事一覧

敬語が必要というのは本当か? 〜儒教による階級の作成と尊敬の強要〜

徹底的な儒教のヒエラルキー!年上を敬うべきであるというのは本当か?

儒教と敬語のシステムが日本人の精神構造にもたらす影響とは?!この世には目上と目下の人間がいるというのは本当か?

日本人が社会に都合のよい部品にさせられる3つの仕組みを徹底解説!人間は部品になるべきだというのは本当か?

自分は素晴らしい人間だと誇り高く生きてはいけないというのは本当か? 〜儒教的謙遜という無駄な自慰行為〜

目上に対して自分の意見を率直に言ってはいけないというのは本当か? 〜逆らうという儒教の悪意〜

日本人は目上を敬っているというのは本当か? 〜儒教的尊敬の不都合な正体〜

敬語・謙譲語の危険性!謙遜することが人として立派だというのは本当か?

敬語に支配されない紀州弁の尊さ!和歌山県民は敬語を使わないというのは本当か?

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

 

関連記事