お金持ちになれば幸せになれるというのは本当か? 〜幼き日の100円の幸福〜

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大人になってぼくはお金持ちになった。

お金持ちになれば幸せになれるというのは本当か? 〜幼き日の100円の幸福〜

・子供の頃のお小遣い制度
・大人になってぼくはお金持ちになった
・大人になれば好きなだけお菓子を買える
・お金を手に入れてぼくたちは自由になった
・お金の多さは幸福をもたらすわけではない

・子供の頃のお小遣い制度

子供の頃のお小遣いというのは、普通どれくらいなのだろうか。ぼくの記憶を辿って行くと、小学校1年生の時のお小遣いは毎週日曜日に300円だった。それがしばらく続いた後に、お母さんから、毎週日曜日に300円か、毎月1日に1000円かどっちがいい?と尋ねられた。

普通に計算すれば毎週日曜日に300円もらえる方が金額が高いのでお得だからそちらを選ぶべきであるが、子供だったぼくは1000円札というお札がもらえる方が嬉しいと感じて毎月1000円をもらうシステムの方を選んでしまった。毎週毎週100円玉を3枚もらうよりも、お札を1枚もらえる方がかっこいいような気がしたのだ。

お小遣い制度というのは子供達に経済観念を学ばせるよい制度だ。限られた金額の中で、決められた時間の中で、いかにして自分に与えられたお金という価値を配分し、自分にとって最も納得のいく形で使うのかを考えさせられるのは子供にとっていい勉強になる。月に1000円という限られた価値の中で、どれだけをお菓子を買うのに回し、どれだけをおもちゃを買うのに回そうかと思考するきっかけになる。

高額の欲しいものがあれば貯蓄の習慣もつくし、やりくりしてお金の使い方を工夫することだってできるし、無駄遣いをしないように節約する精神も身につく。足りなかったり満足しなければお手伝いをして少額のお金をさらに稼ごうとすることも可能だ。小さい頃にポケモンとゲームボーイが欲しいとお母さんに言ったら自分のお小遣いで買いなさいと言われて愕然とした記憶がある。ポケモンのカセットとゲームボーイで15000円くらいするのだ。月1000円の子供にとって自分で買える金額だとは思えない。お母さんは正気だったのだろうか。

ぼくはそれ以来、お小遣いの1000円を全部使わずに貯めるのはもちろんのこと、スイミングスクールに行く際にもらえるお菓子代の100円を、お菓子を買わないで我慢して貯めたり、お菓子を買いなさいと言っておばあちゃんからもらった100円を、お菓子も買わずに貯金したりしていた。なんと我慢強い子供だったのだろう。その甲斐あって何とか自分のお小遣いでポケモンとゲームボーイを買うことに成功したのだが、その達成感は半端なかったのを覚えている。15000円なんて、本当に自分に手に入れられる金額ではないと感じていたのだ。

 

 

・大人になってぼくはお金持ちになった

しかし大人になってしまえばどうだろうか。大人になって仕事をして働けば、それなりにお給料をもらえる。幼いぼくにとってはものすごいほどの大金で、あらゆるものを犠牲にしなければ手に入らなかった15000円は、大人になってはそれほど大きなお金だとは感じなくなってしまった。もちろん大切な大切な15000円に変わりはないのだが、子供の頃に抱いていた15000円の手に届かない夢のような、圧倒的な価値の存在感は自分の中から消失してしまった。

大人になってぼくはお金持ちになった。子供の頃よりもはるかにお金持ちになった。それは誰にとっても当然の成り行きだろう。1ヶ月に1000円で人生を生きていくことはできない。ぼくたちは子供の頃に担った、1ヶ月に1000円という運命をかなぐり捨てて生きていかなければならない。1ヶ月に20万円か、30万円か、60万円か、与えられる価値は人間によってそれぞれ違うけれども、人はそれぞれ自分に与えられる価値に自分自身を適わせながら生きていく。

幼い頃よりも多くのお金を持てるということは、幼い頃よりも自由にお金を使えるということだ。1ヶ月に1000円ではまかないきれなかったいろいろなものが、大人になると手に入る。

 

・大人になれば好きなだけお菓子を買える

1ヶ月に1000円だと、好きなものをほいほい買っているわけにはいかない。1回おもちゃや本を買ってしまえばなくなってしまいそうになりし、お菓子だってそう多くは買えない。ぼくは毎週水曜日にスイミングスクールに通って、その度にお菓子代として100円をもらっていた。限られた100円でなんとかやりくりしてどんなお菓子を買うのかを考えるのは、今思えば楽しかった。高くて美味しい100円のお菓子を買うのか、小さくて可愛い20円とか30円のお菓子を買うのか悩むのは面白かった。そして大抵子供のぼくは後者を好んでいたことが思い出される。

大人になってスーパーマーケットに行けば、好きなだけお菓子を買うことができる。子供時代のスイミングスクールの時のように100円という範囲に縛られることなく、自分の思い通りのお菓子をどれだけ買っても、おそらく3000円くらいだろう。そしてそれだけをスーパーマーケットで払ったって、別に生活苦に陥ることはない。子供時代のぼくからすれば、夢のような生活を手に入れたのではないだろうか。

大人になって働いて、子供時代よりもはるかに多くのお金を手に入れて、そしてそれを親の目も気にせずに自由に使うことができる。このように文章にしてしまえば、なんて幸福な生活だろうと思われるが、本当にぼくたちは、子供時代よりも多くのお金を手に入れることによって、子供時代よりも自由になり、幸福になったというのだろうか。

 

 

・お金を手に入れてぼくたちは自由になった

お金をたくさん手に入れて、自由になったというのは間違いのない事実だろう。子供時代には経済的制限や年齢的制限があってできなかったことが、大人になるとたくさんできるようになる。勝手に自分だけで知らない土地に旅に出ることもできるし、そこで自由に食べ物を食べたり、温泉に入ったり、海に行ったりすることだって可能だ。自由に高い服を買ったり、欲しいと思った電化製品を買ったり、コンサートに行ったり、デパ地下のお菓子やお気に入りのカフェに行ったり、お金をたくさん持つと、本当にいろんなことが、自由に自分の思い通りに実現可能となる。

それではたくさんお金を持つようになって、ぼくは幸福になったのだろうか。“自由である”というのも、結局はその先に人生の幸福という結末が横たわっていないと意味がないだろう。ぼくたちは経済的な自由を手に入れ、誰もが目指す人生の幸福を手に入れることができたのだろうか。

 

 

・お金の多さは幸福をもたらすわけではなかった

振り返って思い返すと、自由にたくさんのお菓子を好きなだけお菓子を買えるときの大人の幸福感よりも、子供時代に100円を握りしめてお菓子を買った時の気持ちの方が尊いと思うし忘れられない。そしてそこには確かに幸福感が生まれていたような気がする。

どうして不自由だったあの頃の方が、幸福に感じられるのだろう。どうして財布に20000円入っている今よりも、100円を握りしめてお菓子やさんへ向かうときの気持ちの方が尊いのだろう。これは単なる“懐かしい”という気持ちに支配されている懐古主義なのだろうか。本当はその時は100円ぽっちで不幸な気持ちだったのに、思い出は綺麗になっていくから、今そう感じるだけなのだろうか。

一般的に考えれば、お金をたくさん持っている大人の気持ちよりも、100円しか持っていない子供時代の気持ちの方が、幸福度が高いことなんて解し難いことだ。しかしその感情や情緒は、幸福についての真実をぼくたちに伝えてくれているような気がする。実はお金の数字や、あらゆる数字の絶対値が幸福には影響しないのではないだろうか。お金の大きさや、あらゆる数字によって支配されている心の動きなんて、幻に過ぎないのではないだろうか。

子供時代のスイミングスクールの帰りには、ぼくの経済世界は100円が全てだった。最大値が100円であり、そして100円を目一杯お菓子に使用できることに喜びを感じていた。泳いだ後のエネルギーの大量消費のあとで、100円の甘いお菓子により栄養を補給出来ることに生物的な幸福感もあったのだろう。100円という限られた世界の中で、ぼくは100円を精一杯潔く使うことにより、心地よさを感じていた。100円の範囲というその不自由さの中で、可能な限り自由に羽ばたこうとした幼少期のぼくの精神が。ぼくに幸福をもたらしたのではないだろうか。小さくて可愛いお菓子を買うことは、高級な服を買うことよりもぼくの心を満たしてくれた。

大人になってどんなに多額のお金を所有するよりも、幼い頃の100円の方がぼくに幸福をもたらしたことは、これからの人生の中でも大いなる示唆になることだろう。お金持ちになることが、いつも人の心に幸福をもたらすとは限らないのではないだろうか。本当の幸福は、所持しているお金の額ではなく、そのお金を所有する人の心の密度にあるのではないか。

 

 

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