日本昔ばなし「鬼婆の糸つむぎ」伝説!鬼婆や山姥が悪人だというのは本当か?

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世の中で悪人だと噂され傷ついている者ほど、実は最も慈悲深い存在なのかもしれない。

日本昔ばなし「鬼婆の糸つむぎ」の伝説!鬼婆や山姥が悪人だというのは本当か?

・「オニババア」という日本語に込められた悪意
・日本昔ばなしでも鬼婆や山姥は退治されるべき悪者だ
・鬼婆や山姥が悪人だというのは本当か?
・日本昔ばなし「鬼婆の糸つむぎ」の内容
・慈悲深く誰よりも優しい鬼婆の伝説も日本には存在している
・世間で悪口を噂されている悪人が本物の悪人であるというのは本当か?

・「オニババア」という日本語に込められた悪意

もしもあなたが他人から「オニババア」と言い放たれたならば、あなたはどう感じるだろうか。おそらくほとんどの人々が、悪口を言われたと思ってひどく怒ってしまうに違いない。それもそのはずで「オニババア」という日本語には通常悪意しかなく、悪口を言って相手を罵りたい場合や怒らせたい場合にのみ使われるということが、日本人の間の常識になっているからだ。

もしも「オニババア」と言われて、あら嬉しいそんなことありませんわと照れて恥ずかしがる人がいたならば、その人は日本人としての一般的感性を完全に欠如させている人物だと思ってまず間違いはないだろう。「オニババア」というのは完全なる悪口のための日本語だ。クレヨンしんちゃんでもよくしんのすけがみさえに「妖怪オニババ!」と悪口を言って、みさえがキレてしんのすけにお仕置きしている様子が見受けられる。

 

 

・日本昔ばなしでも鬼婆や山姥は退治されるべき悪者だ

日本昔ばなしでも、しばしば「鬼婆(おにばば)」や「山姥(やまんば)」が登場人物として出現する。現代の日本語で「鬼婆」というと悪口になることからもわかるように、もちろん日本昔ばなしの中でも、鬼婆や山姥は人を食ってしまう恐ろしいもののけ、もしくは退治すべき悪者として描かれていることがほとんどである。

鬼婆や山姥は絶対的な悪、退けるべき敵、出会ったら逃げるべき恐ろしい怪物という感性は、今でも昔でも日本人の間で確かに共有される感性であり、鬼婆や山姥なんて物語の最後にはやっつけられてひどい目に遭えばいいのだと、誰もが信じて疑わない。周囲の人々がみんな鬼婆や山姥を悪者だと噂して罵っているから、自分でよく思考するまでもなく、鬼婆や山姥なんてみんなから嫌われ続ければいい、どうせ自分には関係のないことだと感じられる。

 

・鬼婆や山姥が悪人だというのは本当か?

しかし本当に人の世で噂されるほど、鬼婆や山姥は必ずしも悪者なのだろうか。もしも鬼婆や山姥が悪者である日本昔ばなしだけが有名だから誰もが鬼婆や山姥を罵っているけれど、実は日本の民話や伝説の中に、鬼婆や山姥が素晴らしい立派な役割を果たすという物語が存在していたならば、ぼくたちは容易に鬼婆や山姥を悪者だと思考停止して周囲に合わせて浅はかに見下すことなどできはしない。

そして実際に日本昔ばなしには、鬼婆が善良な神様として登場する逸話が残されている。それが青森県津軽に伝わる「鬼婆の糸紡ぎ」だ。これは日本昔ばなしでもアニメーション化されている。

 

・日本昔ばなし「鬼婆の糸つむぎ」の内容

昔、みちのくの津軽に両親を亡くした幼い娘がひとりで暮らしていた。生計を立てるために毎朝毎晩、麻を紡いで麻糸を作り売らなければならなかったが、あまりに幼いので上手に口と手先を使って麻糸を紡ぐことができずに困っていた。そして両親が生きていた頃を懐かしんでは、ひとりさみしく涙を流す日々であった。

ある日娘がいつもと同じようにうまく麻糸を紡げずに、夜空に向かってお母さんを呼んで泣いていると、強風の中から突如恐ろしい形相をした鬼婆が現れ、泣いている子は食ってしまうぞと言って娘を脅かす。娘は恐ろしさのあまり家に逃げ込むが、鬼婆は簡単に家に入ってきてしまう。そして鬼婆は「さぁ、糸を紡げ」と娘を促す。しかし自信のない娘は「できねぇ、できねぇ」とうつむく。

すると鬼婆はむしゃむしゃと麻糸を食ってしまう。そして不思議なことに、食った麻糸が鬼婆の尻から次々に出てきた。鬼婆の尻から出た麻糸は不思議なことに黄金色に輝いており、「その麻糸で紡いでみろ、きっとできるだ」と言って、また強い風の中へと消えていった。鬼婆は去り際に娘にこう語る。「泣くんじゃねぇ、泣いたら飯も食えねぇ、生きてもいけねぇだ。泣かねぇで紡ぐだ」

鬼婆からもらった黄金の麻糸は、まるで真綿のように柔らかく、また口と指先に不思議な力が入り、するすると見る間に紡ぐことができた。「できた!おら、紡げただ!」それから娘は、鬼婆からもらった黄金の糸のおかげで、固い麻糸も紡げるようになり、自信もつき、もう二度と泣くこともなかったということだった。

 

 

・慈悲深く誰よりも優しい鬼婆の伝説も日本には存在している

この感動的な「鬼婆の糸つむぎ」の話を聞けば、もはや鬼婆がただの人食いの悪いもののけだと決して一括りにして罵ることなんてできない。この物語の中で鬼婆は、人食いでも、悪人でも、敵でもなく、孤独で幼い娘を救った、まるで慈悲深い神様のような存在だ。こんなに優しく、慈しみ深く、思いやりのある「鬼婆」がいたなんて!そしてそれがきっちり日本昔ばなしの中に残されているなんて!

もはやこの話を聞いた後では「鬼婆」「オニババア」を単純な悪口の言葉だと感じ取ることはできない。そのような感受性は鬼婆について詳細を知らない自らの浅はかさに由来するものだとわかってしまっているからだ。この日本には、どんな神よりも仏よりも慈悲深く優しかった鬼婆の伝説が残されているのだ。

鬼婆はある一面では悪者で、もののけで、退治すべき敵なのかもしれないが、またある一面では、さみしき者を救済する”異形の神”としての側面も併せ持っていることが、日本の民話を追い求めていくと明らかになる。「鬼婆の糸つむぎ」の話を知った後では「オニババア」と他人から罵られても、そうか私はあの慈しみ深い鬼婆だったのかと、寛容に相手を許す穏やかな心を抱けるかもしれない。

 

 

・世間で悪口を噂されている悪人が本物の悪人であるというのは本当か?

人間たちは自らでよく考えもせず、周囲の者たちがそうしているからと適当に空気を読んで、誰かを悪者に仕立てたり構わずに悪い噂を垂れ流したりする。もしもあなたが浮世で誰かの悪い噂を聞いたり、悪人だと罵られているのを聞いたら、容易に同調せず一旦立ち止まり、本当にその人がそれほどまでに悪人であるのかを自らの感性と照らし合わせて精査することが必要だ。

浅はかな浮世の人間たちが悪人だと噂して見下している人ほど、実は優しい心を持ち、慈悲深く、誰よりも傷つきやすく、それゆえに周囲から誤解されて不器用にしか生きられないだけかもしれない。愚かな民衆の噂や、浅はかな集団の感性に決して同調せずに、本当にその人が悪人であるかどうかは、自らの感性だけで決定すべきだ。

誤解される人が悪いというのは本当か? 〜誤解される人は美しい〜

そして自らの感性が、その人を悪人だとせず、実は誤解されながらでも美しく生き抜こうとしている魂を発見するならば、愚かな民衆に同調し一緒に悪口を言い合うという楽しく容易な道など潔く捨てて、自らの感性の指し示す真実の方角へと、自分だけでも旅立って行くべきである。世間がどんなに鬼婆の悪口を言っていようとも、あなただけは鬼婆の心の美しさを信じて、鬼婆を慕いその慈悲を尊敬するための国へ、ひとり静かに歩み始めることができるだろうか。

世の中で悪人だと噂され傷ついている者ほど、実は最も慈悲深い存在なのではないだろうか。ぼくは鬼婆を見ていて、そう思う。

 

 

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悪人は地獄へ落ちるというのは本当か? 〜悪人正機という思想〜

 

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