人間は支配される運命にあるというのは本当か? 〜支配されたくない者たちへ〜

 

人間は親に支配され、学校に支配され、上司に支配され、社会に支配されて死んでゆく。

人間は支配される運命にあるというのは本当か? 〜支配されたくない者たちへ〜

・支配されたくない者たちへ
・人間はまず親に支配される
・人間は次に学校に支配される
・東アジアでは儒教の洗脳により目上に支配される
・社会に出てもなお支配は続き、部品としての人生は完成する
・支配する者、支配される者
・支配されない世界へと旅立て

・支配されたくない者たちへ

誰だって支配されることを望まない。誰にも支配されず、自分自身の考えで、自分自身を表現しながら、人生を生きられたならどんなにか幸福だろう。しかし不思議なことに、または必然的に、人間は生まれてから死ぬまで支配され続ける運命を歩むのかもしれない。

 

 

・人間はまず親に支配される

赤子としてこの世に生まれ落ちた後、人間はひとりでは生きていけない。人間の赤子はシマウマの子供のように生まれた途端に自力で立ち上がれる能力もなく、1年間は寝たままで過ごすように作られている無力な存在だ。自分で食べ物を探しにも行けなければ、自力で移動することもできない。人間の赤子が成長していく過程には、親の力が必要不可欠だ。人間の親もその辺をよくわきまえていることから、母親の場合などは24時間つきっきりで赤子のそばについていることも珍しくない。人間の赤子は親の愛情を受けてこそすくすくと成長していく。

しかしそれは裏を返せば幼少時代という人間の根源は、すべて親に支配される運命にあると言っても過言ではないだろう。何も知らず、何もわからず、何もできない人間の赤子は、そのすべてを親に任せる必要がある。すなわち幼少時代は何もかもが親次第であり、次第に成長しエネルギーを爆発させ自由に行動し自由に表現できるようになった後でさえ、そのあまりの自由さを抑え込むようにして親たちの命令は下される。人間集団の中での常識を教え込まなけばならない、人間社会での正しさを叩き込まなければならない。常時に世の中を渡っていけるように躾けなければならない、それが親の務めであると信じながら、親は子を教育していく。

生まれ落ちてから全く知らない新しいこの世界を経験するときには、常にそばに親がいる。この世界を把握しようと、この世界を認識しようと努力する子供時代というものは大いに親次第であり、その結果として生じる人生というものの根源は、親によって支配される運命にあると言えるだろう。ぼくたちは無力な存在としてこの世に生まれてきた以上、親の愛情が必要不可欠であり、その代わりに人生における顕在的、潜在的な親の支配は絶対的な運命であるようだ。

 

・人間は次に学校に支配される

しかし人間は思春期を迎えると、親の支配をふり払いたいと願うようにプログラムされているらしい。大抵の人間は思春期になると親に反抗するようになるし、自分ひとりで独立して生きていくための心の準備をするように作られているようだ。この時期に親に反抗するのは自然なことだし、保健体育の教科書にもそのように載っている。しかし幼少時代からの親からの支配をやっと思春期になってふりほどき、やっと自由にこの世界を生きられるのかと思えばそうではない。思春期に入ると、いやずっとその前から、学校という施設に支配されるように人間社会はできている。

学校の中で学問を学んでいく上で、学校の中の規則に支配され、学校の先生という権力に支配されていく。先生は学生を指導し、叱り、裁くことさえでき、その裁きは今後の人生すら支配され得る。この学生の行動はよかった、成績はよかったなどの裁きはすべて次の進学へとつながり、果てにはいい会社に就けるかどうかなどどのような人生を送るかを左右する。

 

・東アジアでは儒教の洗脳により目上に支配される

また小学校ではそうでもないものの中学校に入ると新たな人間社会の支配システムを否応なしに伝えられる。それは儒教に基づいた先輩・後輩というシステムで、なんとおかしなことに1つ学年が上だとか、1つ年齢が上だとかという理由だけでその人の人格に関わりなく必ずその人を敬わなければならないと強要され、しかもその尊敬を示すために”敬語”という言語システムを用いて言葉遣いまで変えろと命令されるのだから開いた口がふさがらない。

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ぼくは中学生のときにその先輩・後輩のシステムを聞いたときになんと異常な制度だろうとひどい違和感を覚えたが、それはぼくという人間が本格的に人間社会・人間集団にとって都合のよい部品を作り上げられるために本格的な洗脳が始められたのだと直感的に感じ取ったからである。目上ならば必ず尊敬する、自分の意見を言うことも許されない、おとなしく言うことに従うといった儒教的日本人的人格のすべてはここから始まっているのであり、ほとんどの人間たちはその洗脳に気づかずに飲み込まれて都合のよい部品にされてしまった。部品としてではなく、全体としての絶対的な人間として、力強く生きようと願っている人はどこかに残っているだろうか。

教育の目的とは人間個人の幸福にはなく、おとなしく従順な人間集団の役に立つ人間を育てることにある。イギリス人のマッドリドレー氏「進化は万能である」によると、教育とは全体として生きている独創性に富んだぼくたちを画一の枠にはめ込んで支配しやすくし、人間社会や国家の利益になるような部品として育て上げるためのものだった。ぼくたちは自らの幸福を追求し、この世界に生まれてきたこの命を存分に表現したいと願ったとき、悲しいことに教育へと帰って行くことはできないだろう。そこにはただぼくたちを都合よく支配したいという欲望が色濃く渦巻いているだけだ。

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・社会に出てもなお支配は続き、部品としての人生は完成する

中学校からの教育によって植え付けられた目上・目下の関係性は大学を卒業して人間社会へと出て行くと見事に花を咲かせ、この国では人々は目上や先輩の言うことをおとなしく従順によく聞き、間違っていると感じても自分の意見を主張することもせず、せっかくこの世に生まれて生きているのに自らの思いを表現する力も奪い取られ、ただ人間集団にとって都合のよい部品に成り果て、自分が部品ではなく”全体として”この世界で堂々と生きるために生まれたことも忘れて心はさまよっている。

全て教育の思い通りであり、強力な支配の賜物である。彼らは自らを存分に表現し、幸福に生きるために生まれた自分という存在を根こそぎ奪われ、人間集団にとって最も利益の大きい部品に作り変えられたのだ。それは彼らが愚鈍で悪いというわけではなく、人間の世界はそういう風に仕組まれているものであり、人間たちはそのような運命にあるというだけだった。

労働という環境において目上や上司に支配され、自らを表現することも許されない押さえつけられた状態のままで、日々は過ぎ去って行く。労働に従事するのはほとんどの場合、人間に与えられた最も健康で最も美しく最もなんでもできる素晴らしい年代だ。そんな時代を自らを表現しないままで全て過ごしてしまったら、一体人生というのはなんのためにあるのだろうか。

 

 

・支配する者、支配される者

ぼくたちは生まれた時から親に支配され、その次は学校に支配され、先輩や上司に支配され、人間集団としての社会に支配され、支配され続けたまま人生を歩んで行く他ないのだろうか。このおぞましき軌道を打ち破る扉は、人生に残されていないのだろうか。

支配する者と支配される者は、どのようにして分けられるのだろう。いつの時代においても、どのような国に生まれても、人間集団の中には必ず、支配する者と支配される者が出現する。人類に普遍的なそのシステムは、支配することやされることが間違いであるというよりはむしろ、人間というのはそのようにできているのだということを示すに至るかのようだ。

年齢が高く長老だから支配できるのだろうか、神秘的な力を持った巫女の前に支配される者はひれ伏すだろうか、力が強く暴力が得意で戦争に勝つことができるから支配できるのだろうか、偶然大自然から巨大な富を得たから金の力で支配できるのだろうか。どのような国においても、どのような時代においても、人間の一部は支配したがり、人間の大多数は支配されたがる。ぼくたちはどうすればこの愚かな本能的企みから抜け出し、自分自身を取り戻すことができるのだろうか。

 

 

・支配されない世界へと旅立て

しかしどのように支配という概念から抜け出すかということを知るためには、支配されること、支配されないことを徹底して体験する必要がある。支配されることはもう十分だろう。普通に生きていれば満遍なく支配されたままで人生は終わって行く。親に支配され、学校に支配され、目上に支配され、社会に支配され、そろそろ人生で初めて支配され終わってはどうだろうか。支配されない感覚を生まれて初めて経験するためにぼくは行動したのは旅立ちである。これまでのあらゆる支配から逃れて飛翔すれば、人はどのような景色をこの瞳に焼き付けることができるだろう。

ぼくの旅の軌跡

支配から抜け出したとて、本当に支配されないとは限らない。孤独な出離を為した者に与えられる運命は、唯一自分に支配されることかもしれない。他者ではなく自分だけに支配された時、人は何を解き放ち何を手にするのだろう。旅とは、人生をかけた壮大な実験である。何が与えられ、何を手放すかはしれない。しかし何を手に入れても、何を喪失したとしても、新しい次元を冒険し行動しない人生よりはよっぽどマシである。

 

 

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