自分の価値は自分で決める!愛されたい、褒められたい、認められたいと願いながら人は生きるというのは本当か?

(この記事には広告が含まれる場合があります)

 

誰もが他人から認められたい。

自分の価値は自分で決める!愛されたい、褒められたい、認められたいと願いながら人は生きるというのは本当か?

・誰かに褒めれたり、認められたりするとぼくたちは嬉しい
・他人から褒められなかったり、認められないという孤独
・自分の幸福の根を他人の求めてはならない
・愛されたい、褒められたい、認められたいと願うように人が仕組まれる理由
・自分の価値は自分の中にしかない
・絶対的な愛は、どこから生まれ出づるのか

・誰かに褒めれたり、認められたりするとぼくたちは嬉しい

誰かに褒められたり、認められたりするとぼくたちは嬉しい。それは人間ならば誰もが持っているごく自然な感情だろう。誰かに褒められたり、認められたりすると、自分はちゃんとこの人間社会の中でうまくやっているんだ、誰かの役に立っているのだということを実感し、自分を取り巻く複雑なあらゆる関係性の中で、自分は生きていてもいいのだ、ここに存在していてもいいのだという自信と安心感にも繋がっていく。誰かに褒められたり、認められたりするのは幼少期の子供にとっても、もしくは成熟した大人にとっても重要な経験になるだろう。

誰かに褒められたり、認められたり、愛されていると感じる時、人は誰かと繋がっていると感じ、孤独ではなくなる。その感覚はおおもとを辿れば、生まれたばかりの赤ん坊がお母さんに抱きしめられて絶対的に守られ愛されているという、この世に生まれついた時代のあたたかさに帰着するのかもしれない。大抵の場合お母さんは本能的にも野生的にも、絶対的に赤ん坊を愛し、絶対的にその存在を認め、見放すことなく赤ん坊を育て上げていく。絶対的に愛されていたという人生の最初の感覚を根として、人間は一生を生き抜くのかもしれない。

 

 

・他人から褒められなかったり、認められないという孤独

逆に他人から褒められたり、認められることがない時、人はひどく落ち込む。頑張って生きているのに、必死に努力しているのに、そんな自分自身の中の葛藤など無視され、表層や結果だけから判断されることによって見下されたり、蔑まれたりして人の世の荒波にもまれる。もう一度生まれたばかりの時代のように何をしても褒められたい、生きているだけで認められたい、絶対的に愛されたいという根源的な願いに人間は支配され、さらに必死になって他人から褒められよう、認められようと努力する。他人の役に立つ素晴らしいことを成し遂げ、褒められたい、認められたいと邁進する。

他人から褒められる、認められる、愛されるということで自分は生きていてもいいんだと安心感を感じる人生の中では、他人から褒められない、認められない、愛されない場合には、自分は生きていてはいけないんじゃないかと思い込み、自身を喪失し、自分を嫌いになり、虚無感に襲われる。かつて生まれたばかりの時代にたくさん褒められたように、認められたように、愛されたように、もう一度この人生で他人と繋がりたい、受け入れられたいと願うけれど、あの時代のような絶対感をもはや人生の中で見出すことはできずに、心は彷徨い魂は道に迷ってしまう。

 

・自分の幸福の根を他人の求めてはならない

人間の幸福はどこにあるのだろうか。その根を他人に求めてはならない。他人は常に移ろいぼくたちの思い通りには動かない。彼らはたまにぼくたちを称賛するが、たまにぼくたちをけなすだろう。彼らはたまにぼくたちを愛するが、たまにぼくたちに興味を持たないだろう。それは絶対的な信念に基づくような価値ある感性ではなく、彼らはただ自分にとって都合がいいか、利益になるか、心地いいかを基準として、ただ他人を褒めそやしたり、他人の心を踏みにじったりしているだけに過ぎない。

他人の賞賛や、承認や、愛の言葉に価値を置いてはならない。それはぼくたちの生命の価値を決して彩りはしないし、彼らにぼくたちの生命の価値を決める資格はない。他人の賞賛や、承認や、愛の言葉を自分の幸福の基準としてはならない。彼らの無責任な気持ちが移ろうにしたがって自分の幸福も左右されてしまうような、不安定な海に飛び込んではならない。

 

・愛されたい、褒められたい、認められたいと願うように人が仕組まれる理由

他人に褒められたい、認められたい、愛されたいという願いを基準として人生の日々を送るとき、ぼくたちの生命は他人に都合のいいように操られる結果となるだろう。それこそが人間社会の呪いの正体だ。ぼくたちは常に褒められたいでしょう?認められたいでしょう?愛されたいでしょう?と人間社会から惑わされ、勧誘されている。そして褒められない自分や、認められない自分や、愛されない自分は欠落した人間だと思い込み、他人から褒められるために、認められるために、愛されるために自分は生きているんだと固く信じ込んでしまう。賞賛されることや、承認されることや、愛されることこそが人間の価値だと思い込む。

そして価値のある人間になるため、幸福を手に入れるため、賞賛されるような人間、承認されるような人間、愛されるような人間になろうと必死に努力する。赤ん坊の時代のように無条件で絶対的に愛される日が訪れるはずだと願い、信じ、祈り、他人に愛されるための努力を惜しまない。けれど一向に心が満たされる気配がない。それどころか絶対的な愛や、絶対的な価値や、絶対的な幸福からも以前よりはるか遠ざかっていく。なぜか。それは価値や幸福を、他人という存在に根付かせてしまっているからだ。

結果として彼らは、他人に都合のいい人間、他人によって操られる人間、他人の役に立つ人間、他人に利益をもたらす人間、他人が得するための人間、他人のために生きる人間へと成り果てる。これこそは人間社会が求める人間個体の姿だった。自分自身の真実の幸福を追求することをやめ、自分の幸福を他人の幸福とすり替えられてしまった結果、自分のためではなく他人の、ひいては人間社会のために生きるように仕組まれてしまった。自分の幸福を犠牲にしてでも、人間社会の利益を生み出すように精神を改造された。

他人に認められようと努力することは、結果的には自分の幸福につながるのだからと洗脳され、ぼくたちは他人のために人生を生きるよう操られる。しかしその先にあるのは人間集団の利益だけで、自分の絶対的な幸福は決して訪れなかった。他人に根ざした自分の価値や、他人に根ざした自分の幸福なんて、あるはずがなかったんだ。

 

 

・自分の価値は自分の中にしかない

ぼくたちは魂の中に理想的な桃源郷を内包しながら生きている。それは生まれたばかりの絶対的に愛された世界、無条件に褒められた世界、何もしなくても認められた世界だ。しかしそんな桃源郷がいつまでも続くはずがない。ぼくたちは大きくなる度に絶対的な愛をこぼしながら生きていく。何かができなければ褒められない、いい点数が出なければ認められない、人の役に立たなければ愛されない相対的で荒廃した世界に次第に投げ込まれることによって、自分という個体全体としてではなく、人間社会の部品として都合よく稼働するように仕組まれていく。

人の役に立たず生産性がない人間は生きる価値がないというのは本当か? 〜人が労働する理由〜

相対的な世界では他人からの評価が、自分という人間の価値の基準となる。だからぼくたちは褒められなければならない、認められなければならない、愛されなければならないと必死になり、その結果として人間社会の利益を生み出す部品と成り下がる。思考を停止して、自分は何を求めているのか、自分は何が欲しかったのか、自分は何のために生きているのか、何もかもわからないまま、ただ無意識の中で「絶対的な愛」という故郷に帰ることを夢見て心は彷徨う。しかし他人からの評価を自分の価値の基準とする相対的な世界に住んでいたのでは、絶対的な愛など立ち現れるはずがない。どうすればいいのか。ぼくたちは幸福の根を、他人から自分へと切り替えることだ。

他人から褒められたい、他人から認められたい、他人から愛されたい、そう願うことが当たり前だとされている迷妄のこの世界で、ぼくたちはその他人を、すべて自分へと書き換える。自分から褒められたい、自分から認められたい、自分から愛されたい、そう願うことでぼくたちは絶対的な愛へとたどり着ける、なぜならそれはもう既に完了しているから。

他人から褒められたい、他人から認められたい、他人から愛されたいという願いを完璧に実現することは不可能だ。彼らはこちらの気持ちなど考えもせずに、ただ自分の都合のいいようにこちらを褒めたり、認めたり、愛したりするだけに過ぎない。それは常に不変ではなく、環境や状況や気分によって上がったり下がったり、行ったり来たり、不安定に風の中の木の葉のように揺れ動いている。果たしてそんな承認に、意味や価値なんてあるのだろうか。いや、ない。

他人などふり向きもせず、立ち止まり、深呼吸し、自分の生命の価値を自分だけに委ねてみる。自分の価値を自分で決めてみる。自分から褒められたい、自分から認められたい、自分から愛されたいと願ってみる。するとそこにはもう、絶対的な愛が立ち現れている。自分を褒めているからこそ、自分を認めているからこそ、自分を愛しているからこそ、ぼくたちは自殺もせずに、ここまで生きてきたのではないだろうか。ぼくたちの根源に絶対的な愛があったからこそ、どんなにつらいことや苦しいことがあろうと、ぼくたちは消えもせずにここまで生き延びてきた。ぼくたちが今、ここに生きているということが、自分が自分を絶対的に愛しているという証だ。それは揺らぎもせず、欠けもせず、あなたを責めたりもしない。

他人から愛される必要なんてなかった。ぼくはぼくを愛していた。あなたはあなたを愛していた。それが始まりだった。それが終わりだった。それが全てだった。

不動の精神は燃え盛る炎。もう二度と自分を比べたりなんかしない。揺らぎない愛はゆるしの根源。自分の価値は自分の中にしかなかった。

 

 

・絶対的な愛は、どこから生まれ出づるのか

絶対的な愛は、どこから生まれ出づるのか。それは赤子の時代に母から注がれた、無条件の愛に由来するのか。

絶対的な愛は、どこから生まれ出づるのか。それとも生まれる前から、魂に備わっている炎なのか。

絶対的な愛は、どこから生まれ出づるのか。ぼくがぼくを愛することは、いつから決められていたことなのか。

絶対的な愛は、どこから生まれ出づるのか。あなたがあなたを愛することは、誰が決めたことなのか。

絶対的な愛は、どこから生まれ出づるのか。ぼくがぼくを愛する愛は、あなたがあなたを愛する愛と同じであるのか。

絶対的な愛は、どこから生まれ出づるのか。ぼくがあなたを愛する愛と、あなたがぼくを愛する愛は同じであるのか。

絶対的な愛は、どこから生まれ出づるのか。

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

 

関連記事