胸ぐらを掴まれ、突き飛ばされたりしました。
上級医からの暴力とイジメ!病院は研修医が受けたパワハラにきちんと対応してくれるというのは本当か?
・上司の医師からの日常的な暴言と暴力
・暴力に関する詳細なメモの必要性
・暴力に関する詳細なメモその1
・暴力に関する詳細なメモその2
・“パワハラ”の名付けと担当の心理療法士さん
・暴力した者が勝つ人間社会
・正しい人間は暴力する人間
目次
・上司の医師からの日常的な暴言と暴力
ぼくは沖縄の宮古島の病院で働いているときに、上司の医師に暴力を受けていたことがあった。暴力というのかはわからないが、胸ぐらを掴まれたり、首をしめられたり、突き飛ばされて壁にぶつけられたり、床に転倒したことさえある。また暴言も受けていた。
ぼくは別にそんなこともあるだろうと別に気にしていなかったのだが、どうやらこれは気に止めるべき重要な事項であるらしく、「こんなことされるんですよね〜」と軽く沖縄の大学病院の教授に話したときに、顔を青くしてとても心配してくださったことは記憶に残っている。どうやらこれは異常な状況のようだ。
それをしてくる上司の医師はひとりだけであり、彼は体育会系のような感じの人柄だったので、体育会系だと上下関係に厳しい東アジアの儒教的な人間に仕上がっているから、このような仕打ちをする性質の人もいるだろうと納得していたのだ。
胸ぐらを掴まれたりしていたうちは別に被害もないし、彼も感情的になったのだろう、こんなことで誰かに訴えたら彼がかわいそうだと同情し黙っていたが、壁に向かって突き飛ばされたり、床に転倒させられたときには、怪我をさせられる危険性があったのが嫌だったので、病院の誰かに相談してみることにした。
・暴力に関する詳細なメモの必要性
相談するときには、何時何分どのような状況で暴力を受けたのかを細かくメモしておいた方が説得力があるらしい。嘘だと思われても困るし、東アジア民族の儒教的社会の中では立場の弱い研修医の意見がうまくもみ消される可能性もあると思い、行為を受けた後はきちんとメモしておくことにした。
突き飛ばされたて壁に激突させられた時には紙のメモに日時と状況を細かく書き、突き飛ばされて首を絞められて床に転倒させられた時には、iPhoneのメモアプリに細かな情報を記入した。目撃者には看護師さんや同期の研修医もいたので、そのことについてもメモした。
仲良しの同期の研修医は横にいたにも関わらずその行為をただ見ているだけだったので、それについて後で少し責めてしまった。やはり儒教社会の中では、暴力という明らかにおかしな行為が目の前で繰り広げられていても、上司に対しては何も言えない絶対的な権力の構造があるのだということを知り、改めて東アジア民族の精神構造が垣間見えた機会であった。
また、メモの他には録音などしていればさらに説得力が増すらしいが、とっさの事態でそこまではできなかった。一体録音まで出来る人は、どれほど日常的に被害に遭い、それに対し備えているのだろうか。
・暴力に関する詳細なメモその1
ぼくのメモの一部は以下のようなものだった。
“2018/03/21 朝9時ごろ 5西ナースステーション
目撃者 〇〇先生 看護師数名 廊下に患者
サマリーの修正をリストの1枚半行なったと発言した後で、
●●先生に
急に胸ぐらを掴まれ
首を絞められ
突き飛ばされて床に転倒した”
・暴力に関する詳細なメモその2
また次のようなメモもあった。
“ぼくは、●●先生から、××病院において、殴る、蹴る、叩く、胸ぐらを掴まれるなど、数多くの暴力行為を受けてきました。本日は打腱器で強い力で5回殴られました。
また、肉体的な暴力だけでなく、おまえはカスだ、中身が空っぽだ、おまえは人間ではない、おまえは□□だなどの、数々の暴言を吐かれ、精神的にも大きな傷を負いました。また、鞄の中身を勝手に覗き、その中身について言及するなどの非倫理的な嫌がらせも受けました。
肉体的、精神的な暴力は二人きりの時も、また周りに人がいるときにも行われました。たくさんの医師、看護師、その他の職業の目撃者がおり容易に確認が取れると思います。
ぼくは、いつからか病院にいることが自分の心ににとって大きな苦痛、負担となり、なるべく家で安らぎたいという気持ちが強くなりました。病院で大きな攻撃を毎日毎日受けながら、心身ともに疲れ果てていきました。
今までは休みに外出し、宮古島を見て回ることが楽しみでしたが、最近では家でずっと無気力で寝てばかりいるようになりました。なかなか寝付けず、眠りも浅い状態になりました。寝ても苦痛や疲労感は取れませんでした。楽しかったことが楽しいと思えなくなり、生活から彩りが消えていくような気持ちでした。心を失っていくような、抜け殻になるような気持ちでした。
休日があれば、心や体を休めることができたのでしょうが、ぼくは夏季休暇と出張以外、土日も毎日欠かさず病院に来ており、きちんと安らげる日がありませんでした。しかも、土日はすべて無給でした。きちんと休める日がまったくないことは、大きな疲労により判断力や記憶力を鈍らせる可能性がないこともないと思われます。
そのような状況でも、何とか今まで耐えながら病院に来られたのは、たくさんの優しい先生方と、宮古病院の職員と、そして患者さんや家族がいたからです。”
・“パワハラ”の名付けと担当の心理療法士さん
このような電子的なメモと白い紙に書いた物質的なメモを用意していた。あとはこれを誰に相談すればいいのかということである。全然検討がつかなかったので、信頼できる上司の先生に聞いてみた。すると院長に相談してくれるという。そしてその結果、なんとそのような係の人がいるということなので、その人に話を聞いてもらうようにと指示があった。
その係の方は心理療法士の方であり、親身になって細かくお話を聞いてくれた。メモをもとにしてぼくの話を聞いてくださり、「とても大変だったね」と労ってくださった。
ぼくの受けた行為は知らない間に“パワハラ”ということになっていた。
“パワハラ”という言葉は、それだけで行為主を否定してしまうほど強力な力を秘めており、ぼくはその暴力主を責めたいわけではなく、ただ今後暴力されて怪我さえさせられることをやめさせたかっただけなので、決して“パワハラ”という言葉を使わなかった。その暴力主がなんだか不憫に思われたからである。しかし上記の行為は、他人が客観的にどう見ても“パワハラ”であるらしく、それはパワハラの案件として進行していくようだった。
彼女は、ぼくのメモや発言の内容などをまとめて資料にし、そしてその暴力主の先生にも話を聞き、その結果もまとめて院長に報告するという。たしかに、暴力主の先生にもぼくと同様に話を聞かないと、ぼくが嘘をついている可能性もなくはないので、それは妥当な計画だと言えるだろう。
それにしても、今は病院や会社など大きな組織には、彼女のようにパワハラの話をまとめること担当の人がいるということを知り、社会というものはきちんとなっている風にできているのだなぁと感心した。
・暴力した者が勝つ人間社会
しばらく時が経ち、院長室に呼ばれた。パワハラの件に関しての件であるようだった。彼はおもむろに話を切り出し
「●●先生のことだけれど、彼が教育のためにそういう行為をしたことはちゃんとわかるよね?」「彼は君が、関西弁で何かを言ったから突き飛ばしたんだと言っていたよ」
とまず説明された。この切り出し方からして、彼は●●先生の方に味方しているような言葉の雰囲気だったので、ややうんざりした。暴力主の●●先生は、暴力した理由を院長に説明したような感じだ。それは当然暴力したことを認めた上のことだろう。もちろん自分が最も傷つけられないような方法で、暴力を振るった経緯を説明したのだろうが、たとえどのような経緯があろうと暴力をしてはいけないと思うのはぼくだけだろうか。
教育のためだろうが、なにか理由があろうが、日常的に暴力行為を行うことは社会的に禁止されていることではないのだろうか。そのような人間として当然の前提を加味していない上記のような内容の発言が出たので、もはや諦めが生まれてしまった。
「ぼくは一応、どのような理由があろうと暴言や暴力を日常的に行うのはダメだと思うんですけど…」と至極当たり前のことを言ってみると、彼は「まぁそれはそうなんだけどねぇ…」と答えただけだった。ぼくはなんだかどうしようもないなぁと思い、もはやその会話をやめてしまった。
ぼくは院長のことをとても信頼していたが、これに関してはどうにも●●先生寄りの思想であるらしく、もちろん研修医のぼくよりも何年も上の医療的技術も知識もある●●先生の方が病院にとっては必要な存在であり、そのような政治的な事情も加味されて、思想は傾いているらしかった。
ぼくは、社会というものはこのようなものなのだととても学びになり面白かった。たとえどんなにきちんとした“パワハラ担当”の人がいて組織内で機能していようと、もっと上の政治的な事情で傾きが生じていると、地位が低く暴力を受けたこちらがいくらメモを詳細に取ろうが証拠を示そうが、地位の高い者たちに打ち砕かれてしまうのだ。
人間の社会というものは、やはり思ったよりも公平でないし、不条理なものらしい。ちょうどお猿さんの群れのような感じだろうか。そのような野性的などうしようもない大自然の響きが、人間社会にはまだ残存しているように感じられた。しかしそのような人間という動物を観察できただけでもとても面白かったというものだ。
ぼくはそのような感想をお世話になった心理療法士さんと共有し、苦笑いして終わった。
しかしこのような暴言、暴力的な行為が、極めて低俗な人間の集まりにおいてではなく、医師の間でもまかり通っているというのが驚きだ。ぼくは医師というものはもっと分別のつく高度な人間の集まりかと思っていたが、意外にも感情的にどうしようもないことをしでかす暴力的な種類の人間もいるらしい。
いろいろな種類の人間がいて成り立っているのが、この社会というものなのだ。しかし、暴力で人をひれ伏させようとする地位の高い者が支配するまるで動物のような社会を、医師の世界にあてがって存続させるのは、決して賢明であるとは言えないだろう。
・正しい人間は暴力する人間
この事例の結果として、やっぱりこの人間社会では偉くならなければどうしようもないのだ、年月や経歴を積んで技術も知識ももっと蓄えて、理不尽なことをされない上の人間に早くならなければならないと願ったかといえば、決してそうではない。むしろそのような種類の人間にはなりたくないと強く思った。権力や暴力にもの言わせ下の者たちを傷つけながら生きる人間に、誰がなりたいだろうか。
そして儒教的に立場の弱い者が、肉体的危害を与えられかねないほどの状況に陥り、メモを詳細にとるなどのふさわしい行動の上で組織のシステムにのっとり訴えたとしても、それは見かけ上だけきちんと機能しているように見せかけているだけで、結局は暴力が有耶無耶にかき消されてしまうという社会の本質を垣間見ることができた。そこに見えるのは法にのっとらない、儒教的な観念と風習により人間を裁こうとする原始的なこの国の人間の姿だった。
このようにパワハラというものが世の中で叫ばれている現在においても、沖縄の離島の一病院では、暴力や暴言を受けて下の立場の者が困惑していても、それを修正し救済するしっかりしたシステムは本質的には確率されておらず、きちんとした対応が成され研修医が救われることはなかった。
しかしまだ知識も力もない研修医が、それよりもはるか権力が上の者に明らかな暴言や暴力をされていると判明しても、その儒教的な力関係ゆえに、まったく救済の対応を受けられないという出来事は面白かった。
それではただ力の強い者が正しいという世の中となり、暴力をすればするほどに正しい人間になれるのではないだろうか。それはまるで、多くの人々を暴力や兵器で殺戮できた国家が勝ち、正しい戦勝国となれるような残酷な戦争というものと同じではないだろうか。人間の社会は知性や理性で保たれていると思われていても、実際はただの野蛮な動物の王国なのかもしれない。医師という、知性と理性が保たれていそうな社会の中でさえ、上記のようなことが起こるのだから。