スマホを見ながらひとりで笑うのはキモいというのは本当か?
・スマホを見ながらひとりで笑うのはキモいというのは本当か?
・多くの外国人はひとりでもスマホを見てよく笑っている
・自分が面白いから笑う外国人、他人の目を気にして笑わない日本人
・自由に笑う翼を奪われて生きるなんて悲しい
・鬼束ちひろ「嵐ヶ丘」
・スピッツ「正夢」
・浜崎あゆみ「identity」
目次
・スマホを見ながらひとりで笑うのはキモいというのは本当か?
突然だが電車の中でひとりスマホを見ていて、すごく面白い記事とか動画を目撃してしまったときに、あなたはそのまま素直に笑えるだろうか。ぼくはそれがどんなに面白くても絶対に笑えない!だって公共の場所でひとりスマホを見ながらワッハッハと笑っているなんて、怪しい人だとか変な人だと周囲に思われないか不安だからだ。それにスマホを見ていてひとりニヤニヤ笑っているなんてちょっと気持ち悪くて恥ずかしいではないか。
ぼくのように感じられる人は結構多いのではないだろうか。たとえすごく面白いものをスマホの中に見つけても、それが他人のいる公共の場所だったりした場合には、大抵の人は笑いをグッとこらえて我慢してしまうのではないだろうか。しかし世界中を旅してみて、ぼくはこれが日本人特有の性質なのではないかと思い始めてきた。
・多くの外国人はひとりでもスマホを見てよく笑っている
外国人の人は、ひとりでスマホを眺めながらでもよく笑っている。構わずニヤニヤしている人もいれば、ブワッハッハとひとりで爆笑している人もよく見かける。これがはるか遠い異国のヨーロッパや中東だけではなく、すぐ近くの中国人でもこのような傾向があったのは興味深いことだ。ひとりでスマホを眺めながら笑うことがなんだか恥ずかしいことだと感じられてしまうのは、もしかして日本人だけの性質なのだろうか。
多くの外国人というのは、どうして公共の場所でスマホを見ながらひとりで笑えるのだろう。おそらく答えは簡単だ。スマホで見ているものが面白かったからだ。それ以上でもそれ以下でもない、ものすごく単純な理由である。面白いから笑う、我慢なんてしない、そんな当たり前のことが、どうして日本人のぼくには憚られたのだろか。
・自分が面白いから笑う外国人、他人の目を気にして笑わない日本人
多くの外国人というのは、自分が面白いか面白くないかが重要なのだ。自分が面白かったら笑って自分が楽しんでいることを表現するし、自分が面白くなかったらただ笑わない、人間として当たり前のふるまいである。それに対してぼくの場合は、たとえ面白かったとしても笑いを我慢することがある。それはおそらく他人から怪しいと思われたくない、変だと思われたくない、キモいと思われたくないと心配しているからではないだろうか。他人の目を気にしてたとえ面白いものを発見しても、笑って楽しんだり喜びを自由に表現したりしないで、表情を変えずにグッと堪えることが「普通の人間」だと思われるための手段だと信じ込んでいるのかもしれない。そしてぼくのようにふるまう日本人というのは結構多いのではないだろうか。
自分が怪しいと思われたくない、変だと思われたくない、キモいと思われたくないというのは、自分自身が普段から他人をそのように感じて眺めているということの反映かもしれない。自分が街中で他人を観察しながら「あの人って変な人だな」「あの人って気持ち悪いな」などと感じることが多いあまりに、自分もそう思われないようにしようと自らを制御して自由にふるまえなくなってしまうなんて滑稽な話である。自意識過剰な人間というのは、普段から他人をジロジロと細かく観察しながら生きているのではないだろうか。そしてこれは多くの日本人の姿ではないだろうか。
他人にどう思われているのかを異様に気にしてしまう、他人の評価がものすごく気にかかる、自分がどうしたいかよりも他人にどう思われるのかを重要だと感じてしまう、そのような日本人の精神構造が、互いが互いのことを気にしてじっと観察し合ってしまう「相互監視社会」へと繋がっていく。誰かに常に監視されているような気がする、誰かに常に裁かれているような気がする。誰かに密かに嫌われている気がする、そのような重圧や圧迫感がこの国の空気を支配し、自分がどう生きたいかを基準として動き出すための生命として尊い根源的な熱量を、根こそぎ奪い取られてしまう。自分がどうありたいかというよりも、他人からどう思われたいかを生命の基準としてしまい、自分を自由に表現することをすっかり忘れ、何のために生きているのかわからなくなり心が迷っていないだろうか。
・自由に笑う翼を奪われて生きるなんて悲しい
ぼくは電車の中でひとり笑えない自分のことを、ものすごく日本人的だと感じる。たとえ他人からどう見られようと、自分が面白いと感じていることを笑って自由に表現し、自分が面白いんだから笑うんだ、他人からどう思われているかなんて関係ない、自分がどうありたいかが重要なんだとふるまいきれない自分自身を、とても日本人的だと感じる。他人から変だと思われないこと、他人からキモいと思われないこと、他人からまともだと思われたくて自らのふるまいを決めてしまう自分自身を発見し、反省する。他人からまともな人だと思われたくて、それで人間の群れからはぐれないように、見放されないように、捨てられないようにと精神の奥深くの部分で怯えているのかもしれない。
しかしこの魂の運命や定めはもう既に決められている。どんなに頑張ってしがみつこうとも、どんなに自分を偽っておとなしくふるまおうとも、この魂ははじめからまともでなんかいられないようにできている。まともでなんかいられないと定められた魂が、まともだと他人から思われたくて自らを抑制するなんて滑稽な話だ。はじめから旅立ちは決められている。運命が飛翔へと導いてゆく。まともではない色の瞳を天空へと向けて、まともではない形の翼で銀河を指し示す。まともではないからこそ立ち現れる秘境へ、まともではないからこそ帰り着く異郷へ、傷と悲しみと水色の虚空を超えて、必ずたどり着く。
自由に笑う翼を奪われて生きるなんて悲しい。
・鬼束ちひろ「嵐ヶ丘」
”美徳は信じて裏切る速さだというのに
なぜまともでいられないの
そして私は怪獣になった
共犯者はもういない
日常そのヒステリックな様を
不自由に保つために
だから私は頷かなかった
無傷でいられたとしても
奇妙な揺れを待っているの
心を震わせながら”
・スピッツ「正夢」
”ずっとまともじゃないってわかってる”
・浜崎あゆみ「identity」
”どう見られているかなんて重要じゃないの
必要なのは どうあるべきか”
”どう思われたいとかなんて重要じゃないの
守りたいのは どうありたいか”