敬語を使わない県民性?!
タメ口が普通?!和歌山県民は敬語を使わないというのは本当か?
・和歌山の県民性を尊重した高校の現代社会の先生の思い出
・和歌山県民は敬語を使わないというのは本当か?
・儒教と敬語に支配されることの危険性
・衝撃!紀州弁には敬語がないというウィキペディアの解説
・ぼくの敬語嫌いはなんと県民性から来るものだった!
・敬語を使わない「平等」が残る和歌山は日本の希望の光
・空海「聾瞽指帰(ろうこしいき)」の儒教に対する厳しい言葉
・儒教や敬語の危険性を考察した記事一覧
・絶景多すぎ!和歌山県の旅の記事
目次
・和歌山の県民性を尊重した高校の現代社会の先生の思い出
以前ぼくが印象に残っている高校の現代社会の先生を紹介した。彼は定年間近の大阪から来ている先生だったが、とても真面目でいい子の和歌山県民の生徒が、自分に敬語を使わないのでとても不思議に思っていたそうだ。普通に考えれば高校の生徒が高校の先生に敬語を使うことは自然なことだ。ましてや真面目な生徒ならなおそうするだろうに、どうしてその生徒は敬語を使わないタメ口なのか全く理解不可解だったというのだ。
しかし先生は何かの本で、和歌山県民は敬語を使わない習性があるということを読んで、ものすごく腑に落ちたという。その真面目な生徒は先生を尊敬していないから敬語を使わなかったわけではなく、和歌山県民の習性として敬語を使っていなかったのだ。それから先生はその生徒の県民性を尊重し、敬語を使わないこともひとつの文化として受け入れたのだという。
その話を聞いてぼくはこの現代社会の先生はなんて立派な人なのだろうと感じた。普通の野暮な教師ならば、県民性だろうが何だろうが生徒が先生にきちんと敬語を使うように指導し、命令し、無理矢理に自分を尊敬させる方向へと状況を運ぶだろう。しかしその先生は地域性や県民性、民族性を尊重し、無理矢理に日本における敬語文化に和歌山県の生徒を染め上げ、統一させることをしなかった。
生徒に敬語を使わせ、生徒を先生に服従させるべきだと言われる教育現場において、敬語の指導をしなかったその先生は教師としてはふさわしくない行為をしたのかもしれないが、多様性を認めるべきだと言われている社会においては、彼は模範的な素晴らしい行動を起こしたのではないだろうか。
・和歌山県民は敬語を使わないというのは本当か?
しかしその生徒のように、和歌山県民は敬語を使わないというのは本当だろうか?和歌山県で生まれ育ったぼくが思うに、全然そんなことはないと思う。和歌山県でも他の県と同じように、中学1年生の学校や部活で、年上や目上には敬語を使うように強制され始めることから、素直な生徒ならばみんなその教えに従い敬語を使うことを学ぶだろう。
けれどその一方で、年上でも目上でも敬語を使わなくても全然大丈夫という雰囲気が、和歌山県にはあるような気がする。むしろ敬語を使うなんてよそよそしい、人間はみんな平等なのだから敬語のように人間にわざと階級を設けて見上げたり見下したりするおかしな世界よりも、同じ目線から対等に話し合える世界の方が人間としてふさわしいという寛容な空気が感じられる。
そもそも敬語なんて使わなくたって、態度や仕草や表情で人間に尊敬の念を使えることなんていくらでも可能なのだ。敬語でしか尊敬を表現できないなんて、情緒のない浅はかな文化ではないだろうか。尊敬とはもっと奥深く、ささやかに、無意識に伝えられてこそ本物ではないだろうか。そういう観点からいえば、敬語なしでも仕草や柔らかな方言で何となく相手への思いやりや敬意を伝えられる和歌山の文化圏は人間が生きていく世界としてふさわしいと言えるだろう。
・儒教と敬語に支配されることの危険性
ぼくはこのブログ「みずいろてすと」の中でも、儒教に洗脳され敬語に支配される危険性について、その結果として日本人が個人の幸福を踏みにじられ社会全体の利益の犠牲になりやすく、都合のよい部品のような人生を強いられる可能性について散々記事を書いてきた。それもこれもぼくの感性が直感的に、儒教と敬語は危険だと感じとったからである。
しかしこれはぼくの非常に特殊な個人的意見であり、他に誰もそんなことを主張している人をこの人生で見たことがなかった。誰もが中学1年生からの敬語教育を何の疑問もなく素直に受け入れ、敬語を何の違和感もなく使っている人たちばかりだ。これはぼくという人間の特殊で奇妙な敬語嫌いの感性であり、自分の県民性とは何の関係性もないと信じていた。
・衝撃!紀州弁には敬語がないというウィキペディアの解説
しかし先日「紀州弁=和歌山の方言」のウィキペディアを見ていると、なんと紀州弁では敬語を使わないとあの有名作家の司馬遼太郎が記載していたということを知り驚愕した!司馬遼太郎が和歌山県の方言、紀州弁について「この国のかたち」で記載した文章か以下の通りである。
紀州弁(特に田辺・新宮弁)には他の方言に見られる敬語に相当する言葉が少ない(あるいは存在しない)ことが特徴である。極端に言えば年長者・若輩者、先輩・後輩、会社の上司・部下の関係であっても、格下の人物が格上の人物に対して敬語を使用しないことが慣習として了解されており、それが容認されている。また、敬語を使うことが失礼とされることも多い。これは全国的に見ても土佐弁などでしか見られない珍しい傾向である。
小説家の司馬遼太郎は「紀州方言には敬語がない」と著書の中で述べ、紀州では敬語のない平等の思想が古くから根付いており、明治初期に紀州・土佐で自由民権運動が起こった理由を、歴史的背景として、上下関係の少ない皆平等の思想が古い時代から根付いていた経緯から来たものとして肯定的に評価している。 敬語を使用する感覚が少ない傾向から、他都道府県に移住した紀州出身者は会話に苦労するという。近年では義務教育の広まりや他の近畿方言(特に大阪弁)との同化傾向に伴って、場合によって「関西アクセントの共通語」「近畿方言式敬語(「はる」など)」「地元の言葉」を使い分ける紀州出身者も増えてきている。 一方で、紀州弁には古い時代の尊称が現在でも残っていることがあり、その例として「御前(おまえ)」の多用が挙げられる。「お前」は(おまん)もしくは(おまはん=お前様) と発音された場合は親しみを込めた紀州弁の二人称である。「おまえ」と発音した場合も、単なる「君」「あなた」の意味である場合と、日本の他地方と同様の用法の場合がある。 今日の標準語では「御前」と云う言葉はそのような用法ではないため、「おまん・おまはん・おまえ」を他県出身者から和歌山県人が誤解を受けることも多い。 |
・ぼくの敬語嫌いはなんと県民性から来るものだった!
なんとぼくが敬語を怪しいとか、危険だとか、嫌いだと感じるのは、自分の感性というよりはむしろ県民性から来ているものなのだと知って驚愕した!自分のことなのに自分のことがよくわかって、美しい鏡面を得た気分である。司馬遼太郎も和歌山県民の平等の思想を肯定的に評価していると書いてあるが、まさにぼくもその通りだと思う。
だいたい誰もが小学校で、人間は皆平等だから差別をしてはいけないと習ったはずなのに、それに全く反する思想に基づく「敬語」という差別システムが中学校から導入されること自体かなり矛盾しており、容易に敬語教育なんて受け入れられるわけがない。簡単に敬語教育に染まってしまうのは思考停止して自分で物事をしっかりと考えないような人間たちだろう。
確かに先生という学校での支配者が敬語を教育し、強要してくるのだからそれにおとなしく従って敬語を使い生きていくことが、上手な世渡りの方法であり楽な生き方ではあるが、そんなに何も考えないでふらふらと支配者に言われるがままに生きていて本当に大丈夫なのだろうか。ただ言われるがままではなく、言われたら言われたで果たしてそれが本当に正しいのか、自分の感性やこれまでの知識にのっとって自分で吸収し、自分で思考し、自分自身で出した答えが「それはおかしい」と思うなら、自分のその答えを貫き通すくらいの根性を持っていてもいいのではないだろうか。
・敬語を使わない「平等」が残る和歌山は日本の希望の光
しかし敬語を使わない傾向があるというのは、和歌山県と高知県だけだというのは果たして本当だろうか。日本にはたくさんの都道府県がある中で、どうしてその2つだけがとものすごく不思議な気分だ。中国から割と遠い端っこだから儒教の洗脳を免れたというのだろうか。
しかしその2県でだけ、本当は平等な人間の世界において階級や目上目下の概念を敢えて設定して尊敬を強要するという、支配するのに都合のよい敬語のシステムが植え付けられていないというのは、日本にとって希望の光ではないだろうか。それはこの2県でだけ、敬語という言葉の階級システムによって支配されない、人間としてふさわしい「平等」の世界観がまだ残っているということを意味している。
「平等」とは人間が生きていくにおいてなくてはならない重要な観念だ。しかし敬語という日本に植え付けられた儒教のシステムが、この平等を徹底的に破壊している。なんとかして日本中にこの平等の観念を広めたいと願うが、和歌山県と高知県にしか言葉の上での平等が残っていないというのなら拡散は難しいだろうか。
敬語に支配された日本国民は、たかが地方の野蛮な風習だと気にも留めないだろう。それどころか平等を破壊されているとも知らずに、敬語の日本統一を目指して和歌山と高知の洗脳も強化し始めるかもしれない。敬語に洗脳されていないという尊い文化を残すため、和歌山県民としてできることを考えていこうと思う次第だ。
しかしそもそも敬語を使わないのは本当に和歌山県と高知県だけなのか、ものすごく気になる疑問である。
・空海「聾瞽指帰(ろうこしいき)」の儒教に対する厳しい言葉
最後に弘法大師(空海)の著書「聾瞽指帰(ろうこしいき)=三教指帰」からの言葉を紹介。平安時代の空海も、儒教の怪しさや浅はかさに明らかに気がついていたようだ。そんな空海が入定している高野山の麓の町で生まれ育ったから、ぼくは儒教や敬語が大嫌いなのかもしれない。
“儒者よ、あなたは年長であるからと言って長幼の序をやかましく言い、そのしつけを核にして浅薄な思想を作り上げているが、それは錯覚である。時間にははじめというものがなく、あなたも、わたしも、生まれ変わり、死に変わり、常なく転変してきたものである。生きていることの秘密を知るについては、儒学は無力である。”
・儒教や敬語の危険性を考察した記事一覧
・絶景多すぎ!和歌山県の旅の記事