敬語を使わないという美しさを知らぬ哀れな者たちへ。
日本には敬語を使わない地域がある!敬語を使わないということが無教養で無礼な態度であるというのは本当か?
・ぼくが立派だと感じた現代社会の先生の思い出
・敬語というおかしなシステムの構造
・敬語を使う人々、敬語を知らない人々
・敬語がなくても人は人を心から尊敬できるということ
・ぼくが立派だと感じた現代社会の先生の思い出
ぼくが印象に残っている高校の先生は、退職間近の現代社会の先生だった。彼は怒らない先生だったのでぼくの教室の生徒はみんな先生の話を聞かずに雑談を繰り返していたが、ぼくにとってこの先生の話は興味深い点が多かったので、きちんと耳を傾けていた。彼の話で最も印象に残っているのは、敬語についての話である。
彼は高校の先生なので、当然日本社会において儒教的に有無を言わさず強制されている「敬語」を学生たちに推奨する立場にある人間のはずだった。彼はとても真面目で勉強熱心な和歌山県の奥地から通っている生徒と話していて、その生徒が彼に対して全く敬語を使わないということに当初は違和感を抱き、当然のようによくない印象を持っていたのだそうだ。どうしてこんなにも真面目て熱心な生徒が、きちんと先生に対して敬語を使うことができないのだろうと不思議に思う気持ちもあった。
しかし後に、和歌山県のある地域には敬語を使わないことが文化であり、老若男女を問わずみんなが敬語を使わずに親しく触れ合えることが当然であるという場所が存在するのだとその先生は知ったようだ。そしてその和歌山県の真面目で熱心な生徒も、おそらくそのような文化の中で生まれ育ったのだろうと知った先生は、それからは敬語を喋らないその生徒に違和感を抱くこともなく、その生徒の持つ地域性、文化を尊重したということだった。
ぼくはこの話を聞いて、この現代社会の先生はなんて立派で偉い人なのだろうと感心した!普通の思考停止した愚かしい大人や先生ならば、敬語を使わない生徒に対しては無条件に教育として叱咤し、彼の敬語を使わないという性質と態度を無理矢理にでも強制して修正しただろう。しかしこの現代社会の先生は、敬語を使わないというその生徒の地域性と文化を知り、それを大いに尊重し、世の中では誰もが「正しい」と思い込んでいることがいつでも正しいわけでないことを自ら学び取り、大多数の正しさの波にその生徒を飲み込ませることなく、寛容にも彼が彼の個性と文化の中に生きることをゆるしたのだった。
・敬語というおかしなシステムの構造
敬語を使うことが社会的、絶対的に正しいのだと既に洗脳された人々は、目上に敬語を使わないなんてとんでもない、無教育で野蛮な態度だ、その現代社会の先生は教師として失格だと怒り狂うことだろう。しかしぼくたちは本当に、絶対的に敬語を使うべきなのだろうか。本当に敬語を使わない人々は、無教養で野蛮なだけの原始人なのだろうか。
ぼくたち日本人は基本的に、中学一年生から急にこの世には目上と目下があり、目下は目上に絶対に敬語を使わなければならないと教育され始める。何が目上で目下とかと言えば、1年早く生まれただけで目上、1年遅く生まれただけで目下になるのだそうだ。なんと単純で馬鹿馬鹿しい仕組みだろうか!
敬語とは、その人を尊敬していることを意味するらしい。人間は全て平等だと思いながら自由な海を泳いできたぼくらは、中学に差し掛かると急にこの世には上の人間と下の人間があるのだと強制的に分裂させられ、さらに下の人間は絶対的に上の人間を尊敬するように命令され、その上尊敬を示すために言葉の形すら変えるように強要される。それこそが敬語であり、敬語を使用してしまったが最後、ぼくたちは尊敬しているのだという檻の中に閉じ込められ、その次元から抜け出せなくなり、絶対的に上の人間に服従するような都合のよいコントロールしやすいおとなしい人間へと変貌させられる。
日本人は全てこの上の権力者が下の人間たちを操りやすいというシステムの中に閉じ込められ、自分の意見すら言えない都合の良い部品に成り下がり、どうしてこんなにも生きるのは苦しいのだろう、自分の思いも表現できないのになんのために生まれてきたのだろうと、浮世の暗闇の海の中を溺れてもがきながらかろうじて生きている。
・敬語を使う人々、敬語を知らない人々
自分は社会的常識を身につけられている教養のある人間だと誇らしげに感じながら、敬語システムの中に閉じ込められて上からたやすく操られ部品のようにもがき苦しむように生きている思考の停止しやすい人間と、日本では正しいと植え付けられている敬語の次元に囚われることなくそれを超越し、人間は誰もが平等なのだと感じながらきちんと人間らしく生きている人間の、どちらが原始的だと言えるのだろうか。
・敬語がなくても人は人を心から尊敬できるということ
ぼくは今、四国をお遍路しているが、地元の人々の間には敬語を使おうという空気を感じない。これは和歌山県と同じような空気なのかもしれない。それでは、敬語を使わないのだから彼らは互いが互いを尊敬していないのかと言えば、決してそのようなことはない。むしろシステム的に敬語という言語を使っているような種類の人間たちよりも、はるかに人間に対する厚い尊敬の心を感じるのだ。
敬語を使わなければ尊敬を示せないなんて、誰が決めたのだろうか。敬語を使わなくても、慈悲深い目で、深々とした態度で、言葉にふと付け加えたぬくもりで、人は人を尊敬していることを大いに表現し、示すことができるのだと、敬語に支配された種類の日本人たちは忘れてしまったのだろうか。敬語を使わなければ人が人としての尊敬を表せないなんて、ものすごく馬鹿馬鹿しく愚かしい間違いである。
ぼくは日本の中の敬語が使用されることの極めて少ない地域を巡り、その人々の心の空気を感じ取ることにより、敬語がなくても人は人を尊敬できるのだと確信している。そしてそのような空気に自分が浸りきるとき、人が人を尊重するという真実の姿に触れたような気持ちになり幸福な気持ちになる。しかしそんなことは何も特別な気づきではなく、普通に考えればごく当たり前のことだと感じざるを得ないだろう。
人間はこんなにも敬語なしに、お互いがお互いを心の底から思いやれるのに、本当に敬語なんて必要なのだろうか。敬語がない方が逆に、ささやかな態度の全てを、肉体と精神の全てを絶妙に駆使してはるかに尊敬を示すことができるのに、どうして敬語なんて必要なのだろうか。
社会的に常識だと、正しいのだと、不自然に強制された敬語は、実は上が下を都合よくコントロールするために植え付けられた、便利な人間のリモコンではないだろうか。ぼくたちはこのおかしなリモコンの受信機を嫌だとも言えず強制的に押し付けられ、心と情熱と本当に生きる生命を踏みにじられ、何も言えない部分となり部品となり、違和感を感じる心さえ取り除かれ、何がこんなにも自分を苦しめ迷わせているのかを気づく瞳を持たないまま、魂を彷徨わせてはいないだろうか。