敬語が必要というのは本当か? 〜儒教による階級の作成と尊敬の強要〜

 

敬語が必要というのは本当か?

・東アジアの儒の思想
・旅による目上・目下の解除
・敬意はあらゆる人々に
・邂逅の奇跡を大いに受け取ること
・偽りの尊敬による心の荒廃
・敬意を与えられたならば与え返す
・敬語を超えて
・自作詩「敬語の国」

・東アジアの儒の思想

ぼくたちは東アジア民族である。そしてその国々は多かれ少なかれ儒の思想に支配されている。中国、韓国、台湾、日本など、儒教の観念は目には見えなくとも幅広く生活に根付いている。

その中のひとつの特徴に、目上を敬わなければならないという習わしがあり、その敬いの態度として、社会的に敬語が強要される傾向にある。

敬語を用いなければならないという法律はないだろうが、この東アジアの島国で敬語を使わないとすれば、暗黙の了解で社会的に抹殺されることになるだろう。しかし、本当に敬語は必要な文化なのだろうか。

 

 

・旅による目上・目下の解除

ぼくはよく旅をする。そして異国の人々と意思疎通する。その際は大抵英語である。

英語で話すというのは楽しい。敬語という道具を用いて、わざわざ自分と他人との間に心理的距離感を設けたり、マウンティングを図ったりする必要がなく、お互いに同じ視点、目線に立って、平等な気持ちで話しができるからだ。

どんなに年上のおじいさんでも、どんなに社会的に偉い人でも、敬語という言葉を用いることで尊敬を示す必要がない。ぼくの心や命にとっては、こちらの方が自然な人間関係であり、むしろ東アジアの国々の目上・目下などという観念に大いなる疑問と訝しい気持ちを抱き続けてきた。

 

・敬意はあらゆる人々に

ぼくたちは小さい頃から、人間はみな平等だと教えられる。それが当たり前のことであり、それで生きていくことが自然なのだと幼心に思うのである。

しかしこの東アジアの島国では中学校に入った頃から、先輩・後輩・生徒・先生などと言っては、尊敬が強要されるようになる。人間は平等ではなかったのかと、人間を格付けし、さらにわざわざ言葉というものまで用いて敬意の念を示さねばならない文化に疑問を抱かずにはいられなかった。

そもそも年上だと必ず偉いと思わねばならない観念はどのようにして生まれるのだろうか。ぼくは年上だろうが年下だろうが、どの年代でも本当に聡明な人の割合と愚鈍な人の割合は同じくらい存在し、年齢などまったく関係ないと思っている。

もちろん経験豊富な老人から学ぶことも多いが、それと同時に、まったく経験のない赤ちゃんから学ぶことだって、大いにあると思うのだ。あらゆる人は尊敬すべきものであり、あらゆる年齢から学び取ることがある。それなのに年齢や地位という基準で人々を振り分けて、なんの利益があるというのだろう。

 

・邂逅の奇跡を大いに受け取ること

ぼくは世界を旅をしてきて思うのだ。こんなにも広い世界で、巡り会うことは奇跡のようだと。そして空間的な要素だけでなく、こんなにも広い時空間の中で、この時代において巡り会えるのも奇跡だと思って憚らない。この空間、この時代の中に、たまたま居合わせたからこそ、人々は縁により巡り会うことができたのだ。

そんな奇跡の中で、心の中に地位や格の階段を設け、心理的な距離をわざわざ取りながら話さなければならない敬語というシステムは、非常にもったいないシステムだと思う。せっかく尊い奇跡の中で巡り会えたのだから、もっと近くに心を寄り添わせて心から会話する方が、適切だしふさわしいではないか。ぼくはそれが、旅先の英語での会話では可能なのだ。

余談だが、中国語には敬語がないと中国人に教えられた時には驚いた。儒の思想を発明し、抹消の韓国や日本まで送り込んだのに、その発明者がその思想から来る敬語を失くしているという点は興味深い。東アジアの中心ではなく、抹消の国だけが、久しく敬語を保ち続けているようだ。

韓国では自分のおじいさんに対しても敬語を使わなければならないらしい。日本よりもさらに強く儒の思想は根付いているのだろう。

 

・偽りの尊敬による心の荒廃

そもそも言葉というものを用いて尊敬を表すように強要されるシステムはいかがなものだろうか。そして敬語というものさえ用いれば、一応は尊敬を表していると捉えられるのも気がかりだ。

心では尊敬していなくても、一応尊敬しているふりをするために敬語を使ってさえいればよい。そして裏では、敬語を使っているその相手を汚い言葉で罵っているなどという風景は、この国ではよく見られる光景である。

しかしそれでは敬語を使っている言葉の上での自分自身と、本来の自分自身の間に齟齬が生じ、何か偽りの陰湿な人間性が生まれやすいような気がするのは気のせいだろうか。

本来はみんな正直に生きたいはずなのに、敬語という言葉のシステムのせいで、嘘をつく虚言の機会が圧倒的に多くなっているのではないだろうか。それが積み重なり、自分の中での違和感が増大した時に、人々の心の風景が荒んでいくことは必然と言えよう。

生きていく上で本来ならば与えられなくてもいいはずの違和感を、儒の階級付けと敬語というシステムによって、日常生活の隅から隅まで与えられることは、東アジアに生まれついた不幸のひつであると異国を旅していてつくづく感じる。

 

・敬意を与えられたならば与え返す

ぼくは敬語というものを使うのに違和感を感じるだけではなく、使われるということに関しても違和感を感じる。使われるのもあまり好きではないのだ。そして先輩後輩・目上目下などの場面で、敬語を使われたときにはこちらは敬語でない言葉で返すのが通常だということも気がかりだ。

そもそも、もし相手に尊敬を与えられたら、こちらも尊敬し返すのが、人として普通のことではあるまいか。すなわち、敬語で話されたならこちらも敬語で返す、粗野な言葉で話しかけられたら粗野に返すというのが自然だとぼくは感じるのだ。

敬語で話しかけられたとして、そして敬語ではない言葉で返すというのは、この国では先輩後輩・目上目下の中などでよく見られる一般的な光景だが、敬意を払われたにもかかわらず自分からは敬意を払わないというのは、自分が偉いのだということを認識し、また周りに思い込ませるためのものすごく傲慢な人格としてぼくの目には映るのである。

まるでお猿の集団が誰が偉いかを競い合っているかのようだ。理性を伴った人間ならば、尊敬の念を受け取ったら尊敬の念を返されないものであろうか。

 

 

・敬語を超えて

では敬語というシステムがなければ、尊敬を表すことはできないのだろうか。

いや、そんなことはないだろう。言葉というもので尊敬を表示しなくとも、誠実な態度で、丁寧な行動で、身振り手振りで尊敬の念を示すことは十分に可能なのではないだろうか。

ぼくは異国の人々と話すときは、英語の中に日本語のような丁寧語・尊敬語・謙譲語のシステムが明確に見当たらないので、自分の相手を尊敬するという思いと態度を以て相手に接していた。するとそれは相手に伝わるものだし、こちらにも敬意は伝わる。

言葉に尊敬のシステムなど乗せなくても、人々はお互いを尊重していることを表せるということは、ぼくは旅の中で大いに実感している。そしてそちらの方が素敵なことではないだろうか。

日常的に使用する「言葉」というものに尊敬の念を押し付けて、きちんと年上・目上を尊敬しているかを監視するかのように、敬語というシステムを強要させられ、そして尊敬していない人々に対しても尊敬しているように見せかけるように圧迫され押し付けられ、誰もが疲弊し心が荒んでしまうよりも、敬語というシステムを超越したところで、もっと根本的に心からの尊敬の念を表示できる方法があることを心にしっかりと留めておきたい。ぼくがいくら疑問に思っても、敬語という風習はこの国からなくなりはしないのだから。

ここまで書いておいてなんだが、文学や手紙の中で書かれる敬語の表現は美しいものがあるなあと、情緒の観点からそのように感じることを最後に記して終わろうと思う。

 

 

・自作詩「敬語の国」

便利な言葉ですね
便利な仕組みですね

丁寧・尊敬・謙譲と
使い分ければ世を渡れる
使い慣れれば国を渡れる

年上の者を尊べと
風潮はうそぶいているけれど
目上の者を敬わなければ
まるで人殺しでも犯したかのように 散々咎められるけれど

尊敬を表現することなんて
とても簡単だ

言葉を変えてしまえばいい
丁寧の助動詞「ます」を動詞の連用形に付け加えれば
もしくは断定の助動詞「だ」を丁寧な断定の助動詞「です」に変えてしまえば
それだけで相手を尊んだということになる

ただの動詞をその動作主の所有物としてとらえ
敬うべき相手の行なう動詞を尊敬語化し価値のよりあるものとして持ち上げて
はたまた敬わせたい者の行なう動詞を謙譲語化し価値のよりないものとして蹴落とすことで
相対的にその動作主を敬ったということになる

だから嘘なんて、つき放題だね

世の中の海を渡るために
この国の山脈を渡るために
人々の「言葉」は変換され、また付加される
彼らは安易に尊敬を表そうとした

しかし「言葉」を変換させたからと言って
付加したからと言って
彼らの「心」まで本当に
尊敬に彩られているのだろうか

この国ではよく見かける光景
言葉だけは便利に敬語に変えておいて
嘘っぽい笑顔だけを惜しみもなくさらしおいて
裏ではソイツの悪口を並べている

本当はしていない 尊敬
しているように見せかける 尊敬

敬語はとても便利な言葉
便利だけどずるくて 少しさみしい

本当に尊敬しているのなら
言葉でなくても 瞳の奥に 指先に 滲み出るだろうに
どうしてそれだけでは物足らず
言葉まで変えてしまったのだろう

そしてほんの少し生きた年月が違うだけで
ほんの少し段階が違うだけで
対等に語り合うことを この国では許されない

目上の者に対しては
言葉を変換・付加するのみならず
本当の言葉を言うことも憚るべきだと人は言う
本当の気持ちを告げてはならぬと人は教える

それは意味もなく理由もなく
反逆だととらえられてしまう

人間なんて どの個体も
等しく愚かだというのに

どの人間も 変わりなく
0歳で生まれて100歳には死んでいくというのに

どうして 本当の言葉と引き換えに
本当の心と引き換えに
それらを互いにぶつけ合い 飛び散る生命の火花と引き換えに
そのあまりに美しい火花と引き換えに

虚構を望んでいるのだろう
あまりに安易に暴かれてしまう 偽りの平和を

 

 

 

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