遅刻をしちゃったゾ!!!!!
遅刻ってそんなに悪いこと?社会人が遅刻をしてはいけないというのは本当か?
・遅刻をしてはいけないのは社会人にとって常識中の常識
・慣れない土地で初めての遅刻をしてしまった!
・遅刻をするという大罪の結末
・10分遅刻することは大罪だが、10分早く来ても全く賞賛されないという理不尽
・人間を都合のよい部品にするための理不尽な洗脳
・たった一度の失敗で、これまでとこれからの全てが非難されるという地獄
目次
・遅刻をしてはいけないのは社会人にとって常識中の常識
社会人が遅刻をしてはいけないというのは、常識中の常識だ。遅刻をしてしまうとその人がいないことによって労働が予定通りスムーズに進まなくなり、みんなに迷惑がかかってしまうということが理由として挙げられる。誰もが遅刻はいけないことだと知っているから、ぼくたちはなるべく遅刻をしないように細心の注意を払いながら労働生活を営んでいる。
またたとえ労働していなくても、学生時代でさえ絶対に遅刻は許されないこととされている。別に学生が一人遅刻したところで誰に迷惑がかかるわけでもないのだが、遅刻するということはその人がしっかりとした性格の人かだらしない人柄なのかを見分けるリトマス紙とされている。ドラえもんでものび太くんがよく朝学校に遅刻し、その罰として廊下に立たされている様子がアニメで描かれている。
誰かと待ち合わせをしている際にも、遅刻をする人は呆れられたり怒られたりする傾向がある。ぼくの友達でいつも待ち合わせに1時間ほど遅れてくる人がいるのだが、遅刻した時にはいつもお昼ご飯を奢ってもらうように決めているので、ぼくは結構得していて友達の彼はかなり損している。
ただの買い物の待ち合わせで遅刻するだけならまだいいのだが、実は一緒に外国旅行に行こうとした際に、彼がいつも通り1時間遅れてきて飛行機に乗り遅れた時には開いた口が塞がらなかった!当然新しい航空券を買ってもらって数日後別の飛行機で出発したのだが、ぼくと彼の航空券を新しく予約し直したので、彼はかなりお金を損したことだろう。遅刻をするということは信頼を失うことにもつながるが、それ以上にお金を損することにつながるのだと彼を見ていると感じる。
遅刻をするということは、学生であろうが社会人であろう友達であろうが、とにかく人間として許されない行為だと厳しく見なされているようだ。
・慣れない土地で初めての遅刻をしてしまった!
ぼくも例に漏れず、医師という社会人として労働する際には当然のように遅刻をしないように気をつけていた。3年間の世界と日本をただ単に旅する生活を中断し、日本中を旅しつつ医師としてコロナワクチンバイトという労働に従事する生活にシフトしてからも、遅刻をしないように労働開始の30分前には職場に到着するように心がけていた。
しかしなんとこの前、初めての遅刻をしてしまったのだった!それは広島のアマゾンで時給20000円の職域接種のバイトをしていた時のことだった。アマゾンというのはどこでも中心から離れた辺鄙なところに建てられているので、公共交通機関で行くのが大変だ。それゆえに今住んでいる関西のアマゾンに行く先にはマイカーで向かうようにしていたが、広島に遠征するにあたってはそういうわけにもいかなかった。ぼくは広島市中心のホテルに宿泊し、街のかなろ外れに位置するアマゾンまでバスを乗り継いで行かなければならなかった。
しかし今のご時世、Googleマップを使えば簡単にバスの乗り換えも行き方も出てくるのでたどり着くのは簡単だ。ぼくはGoogleマップを信じ込み、アマゾンまでのバスの便や時刻をきちんと確認してから始業30分前には着くように早朝の朝にホテルを出た。しかしその日は雨が降っており、なんといつもよりも道が混んでいてバスが全然進まなかった。さらに悪いことには、広島の中心地という全く土地勘のない場所でいくつもの同じ名前のバス停が近くに点在し、乗り換えの際に一体どこのバス停に行くのが正解なのかわからなくなってしまい、Googleマップを見てもどのバス停へ行くべきか全くわからない有様だった。バスでの移動って不確かで怖い!渋滞状況にも左右されるし、同じ名前のバス停がいっぱいあるから地元の人で慣れてないと絶対にわからないよ!
結局いくつもの悪い要素が重なり、Googleマップによると30分前にアマゾンに着くはずだったのに10分遅れてアマゾンに到着してしまった!もちろん遅れそうなことは事前に連絡していたが、社会人として遅刻したことがないのでどんな対応をされるのだろうと若干怯えながら職場に向かった。
・遅刻をするという大罪の結末
結果的には8時半から労働開始だったが、8時半にワクチン接種の予約をしている人が全くおらず、最初の予約が9時半からだったので、業務的には全く問題なく周囲の人に迷惑をかけることもなく事は済んだ。しかしそれはたまたま偶然に8時半に予約が入っていなかったからというだけの理由であり、やはり遅刻をしてしまったということは社会人として反省に値するだろう。
医者は社会的権力が高いので全く怒られることも非難されることもなかったが、本当のところは心の中で「10分遅れやがった医者」としてひどく見下されていたとしても何ら不思議なことはない。それほど遅刻することは社会人にとって“罪悪”であるとぼくたちは教え込まれているのだ。
・10分遅刻することは大罪だが、10分早く来ても全く賞賛されないという理不尽
ぼくは用心深い性格なのでいつも30分前には着こうとして家を出ると、実際にはもっと早く着いてしまい、始業開始までかなり暇を持て余すという事例がかなり多い。早く着きすぎても待つ時間が多くて嫌だと思いつつ、それでも慌てたり遅れるよりはマシだと思って早く出ることが癖になってしまっている。
しかしぼくが今回感じたことは、始業10分前に到着することは全く賞賛されないのに、10分遅刻するということはかなり責められるべきだと社会では認識されているということだ。社会人ならば誰もがわかるように、10分遅刻することはかなりの大罪である。けれど本来ならば10分遅く着くことと、10分早く着くことは同じ価値があるべきではないだろうか。つまり10分遅刻することがとんでもない大罪だとして責められるなら、10分早く着くことはものすごく優秀で素晴らしいことだと、10分遅刻した人を非難するのと同じ熱量で賞賛されるべきではないだろうか。
しかし実際の社会はどうだろう。始業10分前に来たところで周囲の人間たちはその人を全く褒めたりはしない。むしろ「社会人としてそれくらい前に来て当たり前だろう」と気にも留めないような風潮がある。しかし本当に社会人は10分前に来て当たり前だと見なされるべきなのだろうか。10分前に来たからといって、その10分に給料なんか出ないのだ。つまり10分前に着くということは、給料なんか出やしないし何の得にも利益にもならないのに、優しさや慈善の心や、周囲の人に責められてはなるまいという恐れの心から、人生の中の10分という貴重な時間を労働のために無料で提供しているのだ。
10分遅れたらとんでもなく責め立てられるのに、10分早く来ても全く賞賛されない世の中はかなり理不尽だ。10分早く来るのが社会人にとって取るに足らない当たり前のことだと見なされるというのなら、たかが10分遅れることだって大したことないと大らかに許されるべきではないだろうか。それなのに10分の遅刻は大罪で、10分早く着き無料で労働に10分間という人生の貴重な時間を提供することは当たり前だとふんぞり返られるなんてどうも納得がいかないおかしな事態である。
・人間を都合のよい部品にするための理不尽な洗脳
10分の例からわかるように、ぼくたちは過度に責められやすく、そして滅多に賞賛されない理不尽な世の中に生きているのではないだろうか。10分早く到着することが、10分遅刻して怒られるのと同じ熱量で賞賛されないというのはおかしな現象だ。ぼくたちが学生の頃から「集合時間の10分前に到着するのは当たり前」だと教え込まれていたのは、実は人間社会にとって都合のよい部品のような人間を量産するための密かな洗脳だったのではないだろうか。
集合時間の10分前に到着するのは当たり前だと見なされているという風潮に、労働者はもっと怒るべきではないだろうか。人生の貴重な10分間を無償で労働に提供するなんて決して当たり前のことなんかじゃない。ぼくたちは社会の部品ではなく、全体として生きる真っ当な人間なのだ。「10分前に集合するのが当たり前だ」という洗脳によって、労働のために10分間という貴重な人生の時間を割くことを半ば“強制“されているというのなら、その10分間にもきちんと給料が出るように請求するべきではないだろうか。
・たった一度の失敗で、これまでとこれからの全てが非難されるという地獄
ぼくが今回10分間の遅刻して思ったことは、もちろん遅刻したことは申し訳ないと思うが、それならばぼくがこれまで数々の職場で30分間きちんと早く着いたという出来事によってチャラにしてくれよということだった。これまでの人生の中で何度も30分前にきちんと到着した経験があるのだから、それだけの大量の善行によって、たった10分のしかもたまたま誰にも迷惑をかけなかった悪行なんてなかったことにできるというのは、至極合理的な考え方だろう。
しかし人間社会はそのようになってはいない。人間社会は、非難されやすく、賞賛されにくいのだ。賞賛される素晴らしい100の行いを積んでいても、たった1度たまたま失敗してしまっただけで、全ての善行はリセットされ、この人はこれまでもそしてこれからも悪いことしかしないはずだという思い込み渦巻く理不尽な社会の中で、ぼくたちは生きている。
人間社会はいつでも、ぼくたちがつまずき、失敗し、転落するのを嬉しそうに待ち構えている。誰もが非難するための行動と要素を密かに探し求めることを楽しみ、誰もが賞賛されるべき他人を見ないように努力する。1度たまたま失敗しただけでも、これまで積み上げてきた全ての優れた努力はなかったことになり、リセットされ、その人のあらゆる過去と未来を非難して喜ぶような悪質な心理の群れの中でぼくたちは行動している。あらゆる善行は、たった一度の偶発的な悪行によって砕かれる。
このような理不尽でくだらない仕組みの集団に、ぼくたちは大人しく忠誠を誓い、従い、操られるべきだろうか。真理を見抜く瞳だけが、その答えを知っている。ぼくたちは知らず知らずのうちに理由を隠され植え付けられた社会の常識や、正しさや、習わしに過剰に支配され、他人や人間集団に人生を乗っ取られてはいないだろうか。