そんな約束をぼくたちはしていない。
ぼくたちは様々な約束をしてこの世に生まれてきたというのは本当か?
・この世に義務はあふれている
・納税の義務という約束をぼくたちはいつしたの
・目上を敬うという約束をぼくたちはいつしたの
・中島みゆき「泣いてもいいんだよ」
・生まれる前のたったひとつの美しい約束
目次
・この世に義務はあふれている
この世はたくさんの義務であふれている。これはやらなければならないと、憲法や法律や条例がぼくたちの生まれる前から社会の中に存在している。
誰が義務を作ったのだろうか。誰がすべての人間はこれをすべきだというあまりに大掛かりな決まりを作り上げ、それを施行させたのだろう。すべての人間がすべきことなんて、本当にこの世にあるのだろうか。それはただすべきことではなく、権力者が民衆を都合良く従わせるために作り出した”強制”の別名ではないだろうか。
・納税の義務という約束をぼくたちはいつしたの
ぼくたちは税金を支払わなければならない。それは憲法で定められているぼくたちの”義務”らしい。ぼくが人生で最も苦痛な瞬間のひとつは、住民税を払いにコンビニへと行かなければならない道のりを歩く時だ。わざわざ行動を起こしてコンビニへと向かっているのに、その先にあるのは個人的な大量のお金の喪失である。
普通人間が行動を起こす時というのは、その先にいいことや幸福が待ち構えている時だ。歩く道の先に幸福があると信じるからこそ、人間はわざわざ歩くという行動を取ることができるのだ。しかしその先にあるのは、10万円近くを奪い取られるという事実だけである。普通コンビニで10万円支払ったら、買い物かごでは収まり切らないくらい大量のものが買えるはずなのに、コンビニのレジで受け取るのは納税の証明書という小さな紙ひとつである。納税だから仕方がないとこの事実を論理的には受け入れられても、本能的な脳の部分で理解が追いつかずに混乱してしまう。
・目上を敬うという約束をぼくたちはいつしたの
儒教に洗脳された日本では、目上を敬わなければ社会で生きてはいけない。ぼくたちは尊敬を示すためにわざわざ思考を使って言葉遣いまで変更しなければならない。これももはや人間社会では常識とされ「義務」になってしまっていると言っても過言ではない。
しかし、本当にこの世に目上や目下があるのだろうか。ある面ではその人は目上でも、ある面では目下であり、人間を多角的にとらえるならばそれらは相殺し合って0(ゼロ)となり、すべての人間は皆平等ではないだろうか。目上だろうが目下だろうが、年上だろうが年下だろうが、すべての人がすべての人を、強制的にではなく自発的に尊敬するということが、人間社会の理想的な姿なのではないだろうか。
・ぼくたちは一切そんな約束をしていない
この世にある様々な義務も、それを生じさせる憲法も、社会の強制的な決まりも、ぼくたちが生まれる前にできたものだ。そしてこの生命がこの世に生まれた瞬間から、ぼくたちはそれらの決まりごとを守るのは当然であるかのように見なされている。しかしそれらを守ることは本当に当然の成り行きだろうか。
この世には、自分に確認もされないで勝手に守られるべきであると見なされている約束が、実はあまりにも多いのではないだろうか。この世にあるあらゆる義務も、法律も、約束も、何ひとつとしてぼくたちに確認されずに、知らず知らずのうちに強制されているものばかりだ。それらを守るということを確認され約束してこの世に生まれてきたわけではなく、たまたま生まれてきたからにはそれらの約束を守らなければならないという強制でこの世は成り立っている。
しかし生まれる前にきちんと確認されていない以上、それらの約束を守らないと堂々と宣言し主張したところで、それは人間としてあながちおかしな発言であるとは言い難い。それらを生まれる前に約束し、契約してこの世に生まれてきたのならば約束を破った裏切り者となってしまうが、ぼくたちが世の中にあふれている義務や、法律や、ルールを生まれる前に守ると確認され約束していない以上、それらを無視することは奇妙なことではあるまい。
それらが自分の感性に合わないとそれらを守らずに、逆にそれらが古びたおかしな決まりであることを表現し、新しい時代の新しい決まりを自分たち自身で作成することさえ、この世界ではゆるされるべきだろう。
ぼくたちは一切そんな約束をしていない。それなのにぼくたちはそんな約束をいつの間にかしたかのように見なされ、扱われ、知らず知らずのうちにしてもいない約束の成り立つ世界へと放り込まれてしまった。やがては誰もが疑わなくなっても、いつしかそんな約束をしたのだと騙され洗脳されても、ぼくはいつまでも憶えている。ぼくたちは一切そんな約束をしていない。
・中島みゆき「泣いてもいいんだよ」
強くなれ泣かないで
強くなれ負けないで
大人になれ泣かないで
大人になれ負けないでぼくたちはいつだって
乳飲み子の頃だって
言われ続け育ったこんな約束をぼくたちはしていない
泣き虫な強い奴なんてのがいてもいいんじゃないか
これは中島みゆきの「泣いてもいいんだよ」という歌詞の一節である。ぼくたちはこの世に生まれ落ちた瞬間から、生まれる前にきちんと約束もしていない、多くの願いに見立てた命令や禁止を言葉として大量に注ぎ込まれる。
「強くなれ」「泣かないで」「大人になれ」「負けないで」いずれも大人にとって都合のいい赤子の状態が言葉となり、命令や禁止が大人の口から赤子の耳に向かって放出される。まるでそれらを守ることが正しいと言わんばかりに。そして赤子や子供たちはいつまでもその言葉を浴びせられて困惑する。
そんなはずじゃなかったのに、生まれる前にそんな約束をしたはずもなかったのに、そうならなければならないような気がして、いつの間にか自分自身の本当の姿を見失ってしまう。大人たちが願う自分の姿を自分にあてがい生きていくことで、本来の自分の姿が蜃気楼のように霞んでしまう。自分が生まれる前にした約束を忘れ去って、この世の人間たちに都合のよい自分に仕立て上げられるための偽物の約束で、人生と心は満たされ冒されてしまう。
・生まれる前のたったひとつの美しい約束
ぼくたちはもう一度、思い出してみないか。ぼくたちが生まれる前に、確かに結んだあの約束を。本来の約束を忘れ果てて、ぼくたちは浮世のどうでもいい約束にまみれて動けなくなっている。どうして生きているのかわからなくなっている。
手がかりはあの、生まれる前のたったひとつの約束。この世の満ちあふれている、人間たちに都合のいい約束、強い力の者たちが得するようにできている約束、小賢しい者たちが喪失しないように仕組まれた約束、そんな取るに足らない約束たちを棄却すれば、透明で美しい、たったひとつの約束が心の水面に浮かび上がる。
忘れたくないといくら嘆いても、意味のない言葉の洪水に約束はかき消された。いつまでも憶えておきたいと願っても、加えて記憶するものなら他に沢山あると愚かしい義務が押し付けられた。”人間”に成り果てて、”正しい生き方”を描けば、美しい約束はぼくたちからはるか遠ざかりもはや見えなくなったんだ。
ぼくたちは約束を持っている。たったひとつの約束を持っている。それは言葉だったかもしれない。それは手紙だったかもしれない。ぼくたちは約束を持っている。たったひとつの約束を持っている。それは子守唄だったかもしれない。それはお伽話だったかもしれない。
たったひとつの約束の中に、ぼくたちの命の色彩は描かれていた。彷徨う魂をなだめる、澪標のような色彩が、ぼくたちを染め上げたとき、ぼくたちはやっと自分自身の正体を思い出す。鏡に映る自分の姿をとらえられる。それは旅の終わりではなく、真実の旅の始まりだ。苦しみの迷路を通り抜けて、迷妄の回路をくぐり抜けて、真実の旅の起点へと立とう。