あなたの生きる時代が迷いと煩悩に満ちていても…。
こんな時代に生まれ生きることが不幸だというのは本当か? 〜迷いと煩悩はあらゆる時代に〜
・宇多田ヒカルの「あなた」
・浜崎あゆみの”こんな時代”
・未来には絶望しかないと思い込む民衆
・迷いと煩悩はあらゆる時代に
・悲惨な事件はあらゆる時代に
・比較することから人は不幸になる
・宇多田ヒカルの「あなた」
”あなた以外何にもいらない
大概の問題は取るに足らない
多くは望まない神様お願い
代わり映えしない明日をください”
宇多田ヒカルの7枚目のオリジナルアルバム「初恋」の中に「あなた」という曲が収録されている。この曲は彼女が自分自身の息子に対して明確に歌った初めての歌であることをインタビューでも明かしており、母親という次元からの慈悲の心に満ち溢れている。と同時にこの楽曲からは人生は苦しみであることを前提としている強い仏教的視点が随所に散りばめられているような気がしてならない。
”終わりのない苦しみを甘受し旅を続けよう
あなた以外帰る場所は天上天下どこにもない”
このような母親としての慈しみの心、仏教的な世界観に満ちているこの「あなた」の楽曲の中でぼくの心に引っかかる歌詞があった。
”あなたの生きる時代が迷いと煩悩に満ちていても
晴れ渡る夜空の光が震えるほど眩しいのはあなた”
このような”迷いと煩悩”というワードからもさらに仏教的な印象を感じ取ると共に、自分が生きている時代に対する悲壮感や否定的な思いは宇多田ヒカルのみならず他のアーティストでもよく多用されている。
・浜崎あゆみの”こんな時代”
”こんな時代”と今の時代を否定的に歌っているアーティストでまず思いつくのは、かつて宇多田ヒカルのライバルとも言われた浜崎あゆみである。
”こんな時代のせいにして顔を失くしたまま
ずっと生まれてきたことにすがりつき生きてた”(Daybreak)
”こんな時代の一体どこに希望なんてあるのかって?”(Rule)
”もうこんな時代だからってそれってどういう言い訳”(INSPIRE)
”こんな時代”という言葉は、どのような人から表現されても否定的な観念に満たされている。”こんな時代”と今の時代を悲しく歌い上げてしまえば人々に受け入れられやすい。誰もが今生きている上での不幸なもどかしさを、なんとかして時代のせいにしたいからだ。しかしぼくたちの生きる今の時代というのは、どんなにあらゆるアーティストから表現されるほど悲観的にとらえるべきものなのだろうか。ぼくたちは本当に、不幸な時代に生まれついてしまったのだろうか。
・未来には絶望しかないと思い込む民衆
テレビや新聞やインターネットからは、今日も悲惨で残酷なニュースが流されてくる。いつもの通り道で誰かが刺されて殺されたり、急にビルが放火されて沢山の人々が一瞬にして亡くなったり、交差点で自動車が幼稚園児の集団に突っ込んだり、北朝鮮からミサイルが飛んできたり、日本と韓国の仲が国家として修復不可能なほどにこじれたりしている。ニュースが悲惨であればあるほど、情報が残酷でインパクトがあるほど、注目され読まれるので、ニュースを知らせる媒体(メディア)はより一層悲惨で惨憺たるものとして状況を画面上に映し出し、金を儲けようと努力する。昔を知らない若い人々は、昔はこんな残酷な事件は起きなかったのになんてひどい時代に生まれついてしまったものだろうと、根拠もなく思い込む。
楽しくて幸福な話題よりも、不安を煽るような暗いニュースの方が読まれるからと言っては、この国の未来を絶望的に感じるような印象を人々に与え続ける。人口は減少し、経済は悪くなり、年金はもらえなくなり、この国の未来には夢も希望もないことを人々に植えつける。そのようなニュースを見る度に民衆は今生きている時代に絶望しかないのだと感じ、なんて時代に生まれてきてしまったんだ、こんな時代に生まれてきてしまって不幸だと思い込まされ、自分自身を不幸な時代に生まれてきてしまった運の悪い人間として一生を過ごす羽目になる。
・迷いと煩悩はあらゆる時代に
しかし今ぼくたちが生きている時代は、本当にテレビや新聞やインターネットが言うほどに悪い時代だろうか。本当にぼくたちが大きな権力によって思い込まされている通り、今の時代だけが惨憺たるものであり、昔はもっと人々が幸福だったと言うのだろうか。
迷いと煩悩によって支配されるのは、時代の問題ではなく人間そのものの習性である。したがって宇多田ヒカルの言うように「迷いと煩悩に満ちている時代」なんてものは存在しないのではないだろうか。人間が生きている限り、それはどんな時代であってもそんな国であっても、彼らは迷いと煩悩により眼を曇らされ、もがき哀れに苦しみ、前へ進めなくなるものではないだろうか。だからこそ迷いと煩悩から解放されようと努力する仏教というものの教えが、2000年以上も前から絶えることなく現代へと引き継がれているのではないだろうか。仏教の教えが過去から継続して現代まこの世で迷っている人々に必要とされている状況は、人間がいつの時代も迷いと煩悩に支配されていたことを意味する確かな証拠である。
・悲惨な事件はあらゆる時代に
今の時代だけに残酷な事件が次々と起こっていると悲しがるのも奇妙なことだ。本当に残酷な人殺しや悲惨な犯罪は今の時代だけに起きていて過去の人の世には起こっていなかったというのだろうか。いや、そんなことは決してあるまい。ぼくたちが若すぎて知らないだけで、戦後や貧しい時代の日本にはもっと惨憺たる犯罪の状況が繰り広げられていたことだろう。
人間の悪の性質は時代によってそうそう変わるものではあるまい。どんな時代の中にあっても人間の悪意はそこかしこに密やかに存在し、狙える獲物はないかと待ち構えていることだろう。そしてどんな時代であっても今の世の中と同じように人殺しや略奪や侵略が繰り広げられていたに違いない。今の時代はこの国で戦争が起こっていない分、むしろ残酷な事件や悲劇などは極端に少ない方なのではないだろうか。本当は悲惨な現在ではなく、割と安全で幸福な時代を生きているのではないだろうか。
・比較することから人は不幸になる
経済が昔に比べて悪くなっているから未来には絶望しかないと思い込むのも愚かなことだ。確かにバブルの時代に比べれば何か相対的に貧しさを感じるものがあるのだろう。バブルの時代を直接的に享受してきた年老いた人々は、どうしても羽振りの良かったその時代と今と比べたがり、その結果として今を経済の回らない貧しい時代だと判断するのだろう。
しかしバブルを経験していないぼくたち若い人々にとって、経済の実感を比較する時代を自分自身の中に持ち合わせていない分、自分たちを貧しく不幸だなんて感じたことはない。むしろ安全で何ひとつ不自由なく暮らせる今の国と時代をありがたいとさえ思うほどである。景気が悪い、貧しいと暗い顔ばかりしている人々は、比較ばかりしている。そして比較は人間にとって確実な不幸への始まりだ。
比較するからこそ、人間は不幸になる。あの異常に豊かだったバブルの時代に比べて今の時代は相対的に貧しいはずだと思い込み、暗く落ち込む。普通の顔をしていると今まで思ってきたけれど、テレビに映るイケメンと比較すれば自分はなんてブサイクなんだろうと自分の顔を憎む。何不自由なく不足なく暮らしているにもかかわらず、自分よりも年収の高い友人を見つけては、自分はなんて貧しいのだろうと不幸に感じる。全ては自分の人生を絶対的に生きようとしないで相対的に生きようとする姿勢から生み出される間違った不幸である。そのような生き方をしている限り、どんな時代に生まれてもどんな国に生まれてもその人は不幸となることだろう。
バブルの頃に比べれば貧しいのかもしれないが、過去と比較しないで自分自身と現在という時代だけを眺めていた時に、何ひとつ貧しくて不幸なことなんてない。適度に好きなこともできて、適度に好きなものも買えて、たまに贅沢する以外は質素に暮らしていてもむしろその質素な生活にさえ心は満たされていく。自分よりはるかに経済的に豊かな人と比較してしまえば自分は貧しいのかもしれないが、そのような人々を気にすることもなく自分と比較する対象として選ぶことすらしないのであれば、自分は自分のまま満たされた状態にあるだけである。
今の時代だけが悲惨で惨憺たるものであるなんてことは決してありえない。それは曇った瞳を持つ人々の間違った時代の見方である。どんな時代であっても不幸な人々は不幸だと感じるし、幸福な人は幸福を味わう。その不幸を時代のせいにしようとしてもそうはいかない。それに成功し自分自身を納得させれば、ますます迷いと煩悩の中に沈み込んで行くことだろう。不幸も幸福も全ては自分のせいなのだ。どのような時代においても、どのような国においても、迷妄にまみれた心を取り祓い、真実の幸福へと近づくための道を見失ってはならない。