人生は仏教的には苦しみの連続!生きることは素晴らしいというのは本当か?
・「死ね」と言ってはいけない
・生きるという苦しみ
・仏教の根本原理
・苦しみの海から生きることを出発しよう
・自作詩「人生は苦しい」
・「死ね」と言ってはいけない
小さな男の子たちはよく冗談で「死ね!」などと言い合ったりする。それを聞いた大人が反射的に憤る。人に死ねなどと言ってはいけないのだと子供たちに教えさとす。その裏側には、命を大切にしなければならない、命を尊く感じなければならないという人間らしい倫理観にあふれている。しかし具体的になぜ人に「死ね」と言ってはいけないのか、教えられる大人はほぼいない。それはまるで、自分自身も幼い頃、大人たちに言われたように、まさにそのようにして次々に子供たちへと受け継がれてゆく、一種の“習い”なのかもしれない。
尋常で考えてみれば「死ね」と言っただけで死ぬことなどまずない。だから「死ね」という行為自体は、実際に殺すわけでもないのだから、罪ではないように思われる。しかし、それはいつの時代でも人間の間では責められる罪悪のように取り扱われる。それはこの国に根付く“言霊信仰”が発動するゆえなのかもしれない。実際に言葉にしてしまえば、その言葉は魂を持ち、その言葉は霊魂を持ち、実際にその言葉が叶えられてしまうような、まさにそのような言葉に対する畏怖の念を、この国の民族たちは不思議と持ち続けているのかもしれない。
「死ね」という言霊を遮る文化の裏には、生きるという肯定であふれている。命に対する尊敬の念が透けて見える。これほど日常生活にさえあふれるほどに、果たして生きるということは楽しく、美しく、素晴らしいことなのだろうか。
・生きるという苦しみ
ぼくは幼い頃から世の中のそのような空気を読み取り、生きることは楽しく、美しく、素晴らしいものになるであろうという純粋で無垢な予想のもとにすくすくと育っていった。疑うことを知らなかった。しかし、生きれば生きるほどに、そのような観念に違和感を感じざるを得なかった。
世の中で素晴らしい、尊いと言われているものほど、深い苦悩をはらんでおり、また残酷な絶望さえ含んでいた。自分の努力でどうにかできるものならば、努力もしたことだろう。しかし、生まれながらにして、もしかしたら生まれる前から定められていた運命に付随する、生きる苦悩や愛する絶望は、どのように努めても取りはらえるものではなかった。
ぼくは幼い頃から教え込まれた、衆生の中に発生する一般的な倫理観や何の根拠もないただ洗脳されただけのように見える思い込みに、違和感を覚え続け、その思いは著しく肥大していった。そしてその違和感も最高潮に達し、心が張り裂けそうになったときになって初めて、仏教の根本原理と巡り会った。
・仏教の根本原理
ただYouTubeを見ていただけだった。インドの風景を見たくてインドと検索した。すると検索候補に「インド 仏教への旅」と出てきた。何気なくそのボタンをクリックした。するとそこには、衝撃的な仏教との出会いがぼくを待っていた。
その番組の内容のすべてはとてもここでは書きつくせないが、何度もその番組の中で繰り返し説いていたことは、仏教の根本原理は「生きることは苦しみに満ちているということである」ということだった。ぼくはすーーーーーっと心の中で、何かが腑に落ちたような感覚になった。ああ、それでいいのだ、生きることは素晴らしいとか、楽しいとか、美しいとか思わなくていいんだ、生きることは苦しいと、普通に思ったっていいんだ。
そういうある種の尊い「ゆるし」を得た瞬間に、ぼくは新しく生まれ変わった気さえした。それはお釈迦様という偉い人が、生きることは苦しみだと、ぼくと同じ考えを抱いていたから嬉しかったわけではない。お釈迦様だろうがその辺のおっさんだろうが誰でもいい、ひとりの男がぼくと同じように「人生は苦しみに満ちている」という発見をして、その思想が何千年にも渡って脈々とアジアの隅々まで生き続けているという事実に感動したのである。
・苦しみの海から生きることを出発しよう
仏教の根本原理は「人は必ず生老病死、すなわち生まれ、老い朽ち、病み、そして死んでゆく。人間は誰もがそうなのだ。だから生きることは苦しみに満ちている」というものであるとされる。生きることは苦海、まるで苦しみの海の中でもがいているようでもあると言われる。しかしこのようなことは、ちょっと自分自身の頭で考えれば子供でさえわかりそうなものである。自分の言葉を以って自らで思考せず、ただ大人たちに教え込まれ洗脳されたとおりに生きるだけのまっとうな子供には発見され難いかもしれないが、聡明な者ならば子供時代に気がつく真理であろう。しかしこの世は、瞳を開かぬ者たちであふれている。
このように、生きることは苦しみである、そのような徹底的な絶望を一旦受け入れて、受け止めて、自分の中で消化して、さらにその思いを昇華して、初めてどのように生きていこうかということを人は考え始めることができるという。それはまさに、人間にとっての誕生の瞬間かもしれない。肉体がこの世に生まれ落ちることだけを、誕生と呼ぶのでは虚しい。人は生きている間にさえ、そのような“生まれ落ちる感覚”、“誕生の感覚”を感受してゆくものである。
・自作詩「人生は苦しい」
生きることは素晴らしいという言葉に
どれだけの少年が傷付いたことだろう
人を愛することは尊いという言葉に
どれだけの少女が望みを絶やしたことだろう
人と同じでなければならないと怯えた瞳が彷徨っている
それだけが それだけが
ぼくが見た人の世の中だった
誰もが思考することを停止して録音された音声を発するだけの
機械と成り果てているならば
ぼくだけは君に告げよう
「人生は苦しい」
「人生は苦しい」
何度でも君に告げよう
「人生は苦しい」
「人生は苦しい」
だからどうか生きていてね
希望をまだ望めるほどの人生ならば
生きることは易かろう
けれどもあらゆる希望から見放された者にしか
見えない地平もあるだろう
そこへと辿り着く道は
決して安らかではなくても
ぼくはきっと生きていこうで
できることならば君と共に
例え遠く離れていても
空へと手を延ばせば 夜の闇に繋がれている
例え時代を隔てていても
土へと手を延ばせば 泥の底で接続される
この苦海に立ち向かい 見定め 破壊し
その向こうにある浄土へと出離できるのは
真に傷付いた者以外 ありはしない