人間の力欲しい、だから人間喰う…。
人間を食べれば人間になれるというのは本当か? 〜黄泉戸喫伝説と自分という現象〜
・人間を食べれば人間になれるというのは本当か?
・ぼくたちは豚を食べても豚にはならない
・ロシアの料理を食べてもロシア人にはならない
・黄泉戸喫から読み解く食べ物の神聖
・人間はまるで川のように実体のない無常の現象
目次
・人間を食べれば人間になれるというのは本当か?
先日、紀伊山脈の奥地の森の中で真夜中に「もののけ姫」に出てくる猩々のような怪物を目撃したことを記事にした。猩々とは日本語ではオラウータンの意味もあり知能が高いので「森の賢者」と讃えられることもあるという。ぼくには「もののけ姫」の猩々の発言でものすごく印象に残っている言葉がある。
「俺たち人間喰う その人間喰わせろ」
「人間喰う 人間の力もらう 人間やっつける力欲しい だから喰う」
常識的に考えれば、人間を食べても人間の力が手に入るわけではないことは明白であり、科学的に考えても、たとえ猩々が人間を食べたところでたんぱく質や脂質や糖分を摂取することはできても、それによって人間の能力が備わったり人間になれるということは皆無だろう。しかしそのような科学的見地を抜きにしたところで、人間を食べても人間になれないというのは、直感的にやや不思議な気配はある。
・ぼくたちは豚を食べても豚にはならない
ぼくたちは日常生活で、牛や豚や鶏を食べて生きている。しかし豚を食べたところで「千と千尋の神隠し」の千尋の両親でもあるまいし、豚になるということは決してない。逆に豚を食べても豚になんかならないことをきちんと知っているから、ぼくたちは安心して豚を食べることができるのだ。
しかし純粋な気持ちで考えてみると、豚を食べたのに豚にならないというのはちょっと不思議な感じがする。ぼくたちは知識として、豚肉を食べるということはたんぱく質という成分を摂取することに他ならないことを知っているが、実際にたんぱく質というものを見たわけでもなければ消化されるシステムもただ暗記して知っているだけのことであるし、何も教育されない純粋な心の状態だったら、豚を食べたのに豚にならないことを少し不思議に感じはしないだろうか。なんとなく、豚を食べると豚になってしまうような気がちょっとする。
・ロシアの料理を食べてもロシア人にはならない
それは旅を通じても感じることだ。旅をしていると、様々な国でできた食べ物を摂取する。たとえばシベリア鉄道の旅の途中でロシアの大地ででできた食べ物を食べる際、自分がロシア人になったりだとか、ロシア語を急に話したりできるということが起きても不思議ではないような気もするのに、しかし実際にはもちろんぼくは日本人のままだし、ロシアの食べ物を食べてもロシア語を話せはしなかった。当たり前のことながらちょっと不思議だ。ロシアの食べ物を食べてもロシア人にならずに、日本人のままであるのは、ちょっとだけ不思議だ。
・黄泉戸喫から読み解く食べ物の神聖
食べ物というのは、そんなに大きく人間を変える力はないらしい。人間を食べても猩々は人間にはなれないし、豚を食べても人間は豚にはならないし、ロシアの大地で食べた料理を食べても日本人はロシア人にはならない。にもかかわらず、食べるという行為は人間に必要不可欠で重要な行為であり、ぼくたちは食べ物には不思議な力があると信じている。
たとえば「千と千尋の神隠し」において、千尋は異界の食べ物を食べることで異界で姿が消えることなく異界に順応していく。また「崖の上のポニョ」においてもポニョは人間の血を舐めたことで、海の世界の魔法を打ち破り人間界に順応したように見える。これは日本の神話における黄泉戸喫(よみつへぐい)がモチーフになっている気配がある。黄泉戸喫の伝説では、イザナミが黄泉の国の食べ物を食べてしまったから、もはや黄泉の国に留まる他はなく家族のいるこの世には戻れないという。食べ物というのは、あの世とこの世の境界線を超越する力があると古代の人々は考えていたようだ。
・人間はまるで川のように実体のない無常の現象
ぼくたちの肉体は間違いなく食べ物からできている。食べ物から栄養を吸収し、細胞を作ったりエネルギーを作ったりして生命活動を営んでいる。ぼくたちは毎日食べ物を摂取し、古い細胞は死に新しい細胞が生まれ、毎日少しずつ細胞を入れ替えながら生きている。それゆえに、昨日のぼくと今日のぼくは、細胞的、肉体的には同じ人間であるということはない。ぼくたちの細胞は毎日入れ替わっており、物質としての昨日のぼくと今日のぼくとは、非常に異なる存在である。
それでもぼくたちは自分は全く同じ変わらない自分だと認識し、昨日のぼくと今日のぼくが別人だなんて決して思わない。ぼくたちが信じるのは、昨日のぼくと今日のぼくとが時空を超えて繋がりあっているという確かな感覚である。昨日の自分と今日の自分、物質的には全く異なっている別の人間であるはずなのに、同じ自分として認識させられる接着剤の正体とは何だろう。
考えてみれば人間の肉体は、まるで川のようである。川というものは実態がなく、全く同じ形をすることは決してなく、一瞬一瞬ごとに水が入れ替わり、波は跳ね返り、泡が立ち現れては消えてゆく。ひとときたりとて同じ物質としての川であることはありえないのに、ぼくたちはその流れを、有様を、現象を、ただひとつ「川」という言葉に結集させ、変わらない同じものであると認識する。常に入れ替わり移り変わる人間の肉体も、同じ状態など一瞬たりともない流れであり、現象であり、川である。ぼくたちは自らという川を、現象を、その働きが整然さを失い、循環が途絶え、乱雑に宇宙へと発散し帰っていくその日まで、どのように運んでいくことができるだろうか。