中島みゆき夜会「問う女」と毛虫の関係!自分がか弱い存在だからと言ってあらゆる他者を傷つけてもいいというのは本当か?

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毛虫気持ち悪いけどちょっとだけ可愛い!

中島みゆき夜会「問う女」と毛虫の関係!自分がか弱い存在だからと言ってあらゆる他者を傷つけてもいいというのは本当か?

・中島みゆき「この世で最も人を傷つけるのはこの世で最もか弱いもの」
・毛虫の毛に触れると皮膚がかぶれる
・様々な弱い生物たちの様々な生き残り手段
・毛虫がか弱い存在だからと言って他者を傷つけてもいいというのは本当か?
・中島みゆき「ハリネズミだって恋をする」

・中島みゆき「この世で最も人を傷つけるのはこの世で最もか弱いもの」

中島みゆきの夜会「問う女」は、言葉が持つ本来の意味を追求することがテーマの、まさに夜会=言葉の実験劇場にふさわしい演目だった。ぼくはDVDでしか「問う女」を見たことがないが、「問う女」は中島みゆきの夜会の中で最も好きかもしれないと感じるほどに心に残る作品だ。特にその冒頭のナレーションはぼくの胸を強く打った。その冒頭のナレーションの言葉は以下の通りである。

”綾瀬まりあさん(夜会「問う女」の主人公の名前)、傷きつやすい自分だと思いましたか
けれど、この世の中で、人を傷つけてもいいとふりかざす理由はいつだって
自分が傷つきたくないための理由ではありませんか

この世で最も人を傷つけるのは、この世で最もか弱いものなのではありませんか”

 

 

・毛虫の毛に触れると皮膚がかぶれる

話はガラリと変わってぼくは今日、森林公園を散歩している間に毛虫を見た。毛虫というのは気持ち悪いものなので決して触りたくはないが、見ているだけだとムニョムニョ動いていて面白いものだ。毛虫の気持ち悪い外見は単なるハッタリではなく、人が毛虫の毛に触れると皮膚がかぶれるのだという。

ぼくも宮古島で一度、ぶつかってもいないのにいきなり手の甲から血が滲んで痛かったことがあり、おかしいなと思っていたらこれは知らない間に毛虫に触ったのだろうという意見が出た。そういえば駐車場の木のあたりで毛虫が発生しており、近づかないようにしていたが夜の闇の中で毛虫が落ちてきて手の甲に触れた可能性は十分にある。触れただけで血の滲むこんな怪我を負わせてしまうなんて毛虫というものは大したものだと感心した。きっと進化の過程で、外敵から身を守るためにこのような仕組みを遺伝子とともに育て上げたのだろう。

 

 

・様々な弱い生物たちの様々な生き残り手段

外敵から身を守るために、か弱い生物はいろいろな手段を取る。たとえば魚やクラゲやエビなどの水中の生物は赤ちゃんが小さすぎて海の中で他の生物にすぐに食べられてしまうから、これでは子孫を残せないと危機感を覚えた彼らは赤ちゃんを大量に発生させるという技を獲得した。たくさん食べられてもそれ以上にたくさんの赤ちゃんがいれば、遺伝子を未来に残せるだろうということだ。しかしこれは考えれば少し残酷な気分もする。種の存続を願うがためにこの世で食べられてもいい個体、八つ裂きにされてもいい個体、死んでしまってもいい個体の分を新しく発生させたわけだから、これを人間に置き換えると少し寂しい気分にもなる。

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またカエルとかカメレオンとかトカゲなどの爬虫類は、周囲の環境に合わせて色を変えることができるらしい。カエルは緑がいっぱいのところにいると綺麗な緑色をしているが、腐葉土の上にいたりすると茶色をしている。周囲の環境と同じ色になることで、外敵に見つかりにくくしているようだ。それにしても誰からも教えられることもなく、こんな風に色が変わる手段を生まれつき知っているなんてすごい!

 

 

・毛虫がか弱い存在だからと言って他者を傷つけてもいいというのは本当か?

そんな彼らと同じように、鳥などの外敵に襲われやすかった弱々しい毛虫の先祖は、なんとかか弱い自分を守ろうとしてニョキニョキニョキっと毒の毛を生やして対応したのかもしれない。それによって毛虫を襲おうとする奴等を毒で撃退することができ、種の存続を今現在も守れているので、弱々しい自分自身を守るという目的は達成されたと言えるだろう。

しかし毒の毛を生やすという進化は、クラゲのように赤ちゃんの数を増やしたり、カエルのように色を変えたりする進化とは少し違う。毛虫の進化は、別に襲おうともしていない生物さえ傷つけて痛めつけてしまう害が生じるからだ。

まさに宮古島のぼくがいい例だ。ぼくには全く毛虫を襲おうという気もなければもちろん鳥のように毛虫を食べてやろうなんていう気もさらさらなかった。むしろ毛虫に興味なんかこれっぽっちもないし、できることなら近づきたくない限りである。そんなぼくの手の甲に傷を負わせるなんて、毛虫というのはなんて迷惑な生物だろうか!まさに「害虫」と呼ばれるにふさわしい愚行である。

自分を襲おうとしている悪意ある敵に対して攻撃をしかけ、傷を負わせるというならば生き残るために仕方がないかとまぁ納得ができる。攻撃しないと食べられて自分の命がこの世からなくなってしまうかもしれないのだから毛虫だって一大事である。一大事にとっさのことで他者を傷つけるというのは人間世界でも”正当防衛”としてゆるされる場合も多くあるので、毛虫にもゆるされていいだろう。しかしなんの悪意もない者、なんの興味もない者、通りすがりの無垢な者、ただ純粋に一生懸命生きている者に対して、こいつは自分を襲おうとしているに違いないと勘違いして傷を負わせてしまうなんて、人間世界でもゆるされるはずがない。人間と毛虫を比べるなんてどうかしているが、弱い種類の人間にも毛虫のような存在が散見される。

すなわち誰もその人に興味なんて持っていないにもかかわらず、自分はこの世でか弱い存在だと感じ、襲われたらどうしようかと常に怯えながら敏感に生き、その人のことなんか見向きもしていない人に対しても、自分を襲おうとしているのではないか、自分の悪口を言っているのではないか、自分を貶めようとしているのではないかと被害妄想し、自意識過剰となり、無意味に攻撃をしかけてくるような人物である。

 

 

・近づいてくる者をすべて攻撃してしまう毛虫の孤独と悲しみ

また毒の毛を持ってしまった毛虫にとっては、自分に敵意があるものも自分に善意がある者もどちらも同じ攻撃すべき者であり、悪意があろうが善意があろうが寄り添ってくる者を無差別に傷つけるという性質を持っている。毛虫は自分を襲って食べてやろうとする悪意の塊の鳥も攻撃できるが、可愛い毛虫だからエサを与えてやろうと近づく少年の手にも攻撃を加えるのだ。

このような種類の人間が、あなたの周りにもいないだろうか。心が弱いあまりに毛虫のように心に毒の毛を張り巡らせ、自分を必死に守ることができて安心しているけれど、実は自分に攻撃をしかけてくる者ばかりではなく、自分に優しく接してくれる者、自分に思いやりを与えてくれる者、自分に恵みを注いでくれている者さえも毒の毛で等しく傷つけてしまっているような悲しい人間が、あなたの周りにもいないだろうか。あなた自身が、そのような人間になってはいないだろうか。

毒の毛を持っている毛虫にとっては、とにかく近づいてくる者すべてが敵だ。悪意があろうが、敵意があろうが、善意があろうが、恵みがあろうが、慈悲があろうが、接触する者を分別なく構わず攻撃して傷つけてしまう。あらゆる存在を敵だと見なすことで、弱い自分の命を守ることができたのだと満足する。そうやってこの世では誰も、近づいて来てくれる者がいなくなる。優しくしようが、ねぎらおうが、思いやろうが、慈しもうが、すべてが悪意のある行為だと見なされて毒の毛を向けられる存在に、無理してでも接してみたいと願う者はない。

毛虫はただ、誰も彼もを傷つけてしまう自分の毒の毛のせいで、自分の命は守れたけれどその結果全ての人を傷つけてしまうだけの嫌われ者になったと、毒の毛の中で孤独に泣いているのかもしれない。自分があまりに弱いがために自分の命を守ることに一生懸命になりすぎて、自分の命は安全に守れたけれどその結果すべての人を傷つけてすべての人に嫌われる人生でもいいのだろうか。生きているだけであらゆる人を傷つけて、無関心な人よりむしろ気にかけて近づいてくれる慈悲深い人たちをひどく傷つけて生きていく、そんな人生はやるせないものだろう。

ぼくは森林公園でウニョウニョと可愛らしく進んでいく毛虫を見たとき、中島みゆきの夜会「問う女」の主人公綾瀬まりあの”この世で最も人を傷つけるのは、この世で最もか弱いものなのではありませんか”という言葉を突然思い出した。そして自分のことについて少し考えた。

 

・中島みゆき「ハリネズミだって恋をする」

”傷つけちまった悲しみに後ずさりするハリネズミ
傷つけちまった悲しみにひとりぼっちになるハリネズミ
この針は脱げない鎧 外から来たか内から来たか
この針は脱げない鎧 掘っても抜いてもまた生える”

 

 

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