お金や神や時間!人間は自分で作りあげたものによって自らを支配されるというのは本当か?

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人間は自分で作り上げたものたちによって、自らを支配される道化師だ。

お金や神や時間!人間は自分で作りあげたものによって自らを支配されるというのは本当か?

・人間は自身で作りあげたものによって自らを支配されるというのは本当か?
・時間
・神様
・お金
・人間は発明したものを上手に支配し、利用せねばならない

・人間は自身で作りあげたものによって自らを支配されるというのは本当か?

人間はその一生に渡って大概何者かに人生を支配され、そして支配されたままで一生は終わってゆく。最初は親の支配、次には学校の支配、先輩や上司の支配、人間集団としての社会や空気の支配など、支配する者は年齢と共に徐々に移り変わってゆくものの、自らを最大限に表現することを抑圧され支配され続ける傾向にあることは一生をかけても変わらない。

人間は支配される運命にあるというのは本当か? 〜支配されたくない者たちへ〜

実際に人間からの支配であれば目に見えるのでわかりやすいが、しかし人間にはまだまだ見えないところで潜在的に支配されているものが多種多様にあると思われる。

 

 

・時間

例えばぼくたちは日常生活で時間に支配される。社会生活を営んでいると時間を守らない者は信頼を得られないし、ひどく叱られることになるだろう。電車の時刻に間に合わないと家にも帰れないし、飛行機の搭乗時刻に遅れたら異国へと旅立てないので注意が必要だ。ぼくたちは時間に間に合うように慌てるし、走るし、余裕を持って行動することが求められる。

しかし飛行機の搭乗時刻ならともかく、社会生活で1分とか2分とか遅れても実際問題さして差し障りのないようにも思われるが、人間社会の中では厳密に時間を守ることはなぜか信頼のものさしとされ、重要ではないたった1分や2分のことで信頼を失ったり、ひどく人を苛立たせたりする。

ぼくたちはいつも時計を見て時刻に注目するように必然的に義務付けられ、時計の文字盤や時刻を気にしない日は皆無に等しい。本当は時計なんて発明される前からずっと人間は適切に社会生活を営んできたのだから、結局重要なのは日が昇ったら活動し始めて日が沈んだら眠るということだと思うが、そんな原始人のような生活は野蛮だと、現代の人々はいつも神経質になりながら時計で時刻を逐一確認する日々が続く。

しかしよくよく考えてみれば「1時」とか「3時間」とかいう概念も古代の人間が発明したのだし、時計というきかいだって人間が発明したはずだ。それによって生活が便利になればいいものの、本当に便利に快適になっているのだろうか。むしろ時間や時計の発明によって、人々は常に厳密な時間に支配され、おおらかに生きにくくなっているのではないだろうか。大して怒るべきでもなければ苛立つこともない少しの時間のズレに、人間たちの心は惑わされその厳密さに疲弊している。

 

・神様

様々な意見があるだろうが「神様」というものも人間が発明した可能性が極めて高いだろう。本当に神様がいるのかはよくわからないが、神様がいると信じる気持ちを人間が自らの心に生み出したからこそ、今ぼくらの世界には神様がいるのではないだろうか。日本のように神様が山や清流や石そのものであり、なんだか偉大なものというよりはむしろ親しみやすい友達のような感覚であればまだ支配もされづらいが、異国では絶対的で唯一の神の姿が作り上げられ、それをうやうやしく崇拝する様子は多々見られる。

敬い慕い祈り拝むくらいであればまだ人間の心におおらかな自由もあるだろうが、神の啓示や教えだということで様々な重要な生活様式や思想が神によって支配され、行動が多様性を喪失し画一的に押し込められ自由が制限されてしまうことも珍しくないだろう。神様は人間が発明したものだとするならばその啓示や教えも人工的なものであり、古代の支配者が民衆を支配するために”神様のフリ”をして”神様の代わり”に啓示を作成し公布した可能性は高い。誰もが心の中に自然と感じる神という存在を利用して、都合よく民衆を支配しようと企んだ権力者はいつの時代にもいたことだろう。権力者は人間の上に立つ者としてのひとつの神を作り上げ、それぞれの民衆の心の中にあるそれぞれの多様性に富んだ神をそのひとつへと収束させ、民衆は支配されていったのかもしれない。

支配されただけならばまだ他に迷惑もかからないが、そのようなたったひとつであるはずの神の意見が隣国同士で食い違うときには、殺し合いや戦争を引き起こしたりするので迷惑だ。人間は神というものを自ら発明し、それをうまく利用するわけではなく、神という概念に踊らされ、本来ならしなくてもいい殺し合いまでしているのだからなんとひとり上手ではないだろうか。

 

 

・お金

ぼくたちは何のために生きているのかと問われれば、お金を稼ぐためかもしれないと自らの生活を顧みて感じる人も多いことだろう。資本社会の現代に生まれ、お金を稼ぎ経済を発展させることこそが素晴らしいのだと信じ込まされ、十分に自由に快適に生きていくだけのお金はあるのに、まだまだもっとお金を稼がなければもっと労働しなければと踊らされ、せっせと働いているうちに若く美しい時代は過ぎ去り残されるのは老後だけというのは、大抵のぼくたちの決められた人生だ。

しかしぼくたちの人生や生活を支配しているお金というのも、明らかに人間の発明品だ。最初はおそらく物々交換だと思いし腐るし大変だからということで、便利な媒介としてお金を発明したのだろうが、次第にお金は人間に利用される物質から、人間を支配できる道具へと変貌し、今や人間のほとんどはお金に踊らされている毎日だ。お金がなければ生きていけないのだから仕方ないじゃないかという意見もあろうが、自らの作り出したものにより操られ、制限され、支配され、欲しがり、奪いたがり、ときには犯罪すら起こしてしまうなんて何とも滑稽は話ではないだろうか。ぼくたちはお金を上手に利用することを忘れ、お金に翻弄され、踊らされ、人生はお金を稼ぐためにあるのだと誤っては信じ込む。

 

 

・人間は発明したものを上手に支配し、利用せねばならない

ぼくたちはあまりにも、自分で作りあげたものにより自らを支配されすぎではないだろうか。重要なのは自分たちで発明したものを上手に支配して、便利に利用して生きて行くことだ。しかし人間は逆に利用され、支配され、自らの発明品に踊らされてばかりだ。自分で作ったものにより便利さを享受しないで、自らを苦しめたり、心を追い詰められたり、他人を殺したりしている様子は、人間ではない生物から見れば非常に滑稽であることだろう。

最近ではAIが盛んに話題に上がり、人間によって作られたコンピュータによって人間が支配される日も近いだろう。さすればさながら映画「ドラえもんのび太とブリキの迷宮(ラビリンス)」のような世界観が実際にこの世でも展開されることが予想され、恐ろしくも少しワクワクしてしまう。せいぜいロボットの反乱に立ち向かうことができるように、それまでにドラえもんでも発明しておくべきである。

 

 

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