地球温暖化はよくないと、ぼくたちは小学校から勉強する。
無常の世界において変化を憎む人々へ!地球温暖化はいけないことだというのは本当か?
・幼い頃から考えさせられる「地球温暖化」の問題
・「氷期」と「間氷期」の学び 〜地球温暖化はいけないことだというのは本当か?〜
・気候が変化するという自然現象を人間は「異常気象だ」と言って騒ぎ立てる
・人間は自然の単なる一部でしかない 〜人間活動=自然現象〜
・異常気象よりも異常な人間の思考回路
・変化を恐れ、不変にしがみつく人間
・変化を恐れる人間、変化を促進する人間
・「地球温暖化」が泣いている
・この世の無常を示すブッダの遺言
目次
・幼い頃から考えさせられる「地球温暖化」の問題
地球温暖化が起きてしまっては大変だというのは、ぼくたちが幼い頃から散々聞かされる環境問題の話題である。地球温暖化は二酸化炭素などの温室ガスが原因だという。地球温暖化が起こったら海面は上昇し、今陸であるところが海に沈んで住めなくなってしまうらしい。そればかりではなく異常気象が起こりやすくなり危険なのだという。小学校の頃からぼくたちはそんな風に、地球温暖化の弊害について教えられる。
テレビのCMなどでも地球温暖化のことを考えた企業であるという宣伝文句であふれ、意外なところでは昔おバカなアニメクレヨンしんちゃんでも「ケチケチで温暖化防止だゾ」という環境問題をテーマにした回が流れたこともあった。おバカなしんちゃんですら地球温暖化のことを考えているのだからそれを見た子供たちは、自分たちも環境問題について考えるべきなのかもしれないと少しは思うのかもしれない。
・「氷期」と「間氷期」の学び 〜地球温暖化はいけないことだというのは本当か?〜
こんな風に幼い頃から「地球温暖化はいけないことだ」「逆に地球温暖化を阻止しようと頑張ることはまさしく正しい」という風潮のもとで育ったが、「地球温暖化はいけないことだというのは本当か?」と疑問を持ったのは、高校の地理の授業の時だ。
高校の地理の授業によると、地球には「氷期」という寒い時期と「間氷期」という暖かい時期が交互に訪れているのだという。「氷期」と「間氷期」の周期は10万年ごとにやってくるらしい。今は暖かい方の「間氷期」の時代に当たるのだという。
この「氷期」と「間氷期」の話を聞いて、なんだ地球ってその長い歴史の中で、何度も何度も気候を変えて、暑くなったり寒くなったりをウニョウニョと繰り返しながらその歩みを進んできたんじゃないか、暑くなったり寒くなったり気候が変化することなんて、地球にとって通常で普通の状態なんだと思ったのだった。
・気候が変化するという自然現象を人間は「異常気象だ」と言って騒ぎ立てる
色々と暑くなったり寒くなったりすることが地球の普通の状態であるのに、どうして人間たちは例年よりちょっと暑かったり寒かったり、ちょっと雨が多かったり台風が多かったりするだけで「異常気象だ」などと言って騒ぐのだろう。人間ってちょっと大げさすぎるのではないだろうか。
暑くなったり寒くなったり、雨が降ったり風が降ったりすることは、地球がそうすべきだと感じたからそうなっているだけであって、決して異常なんかじゃないのではないだろうか。暑くなったり寒くなったり状況に合わせて色々と変化していくことは、地球の正常な状態なのだ。それを人間が自分たちに都合の悪い気候だからといって、地球のもたらした正常な気候のことを「異常気象」とさも悪者であるかのように呼び、憎しみを抱いているだけではないだろうか。
・人間は自然の単なる一部でしかない 〜人間活動=自然現象〜
「氷期」と「間氷期」の気温のグラフを見ればわかるように、地球の温度というものはグイングインと常に揺れ動きながら、暑くなりながら寒くなりながら今に至るまで移行してきたわけだから、別に地球が温暖化して暖かくなることだってとても自然な流れじゃないだろうか。
「氷期」と「間氷期」のサイクルは自然によりもたらされたもので、今の地球温暖化は人間活動によって引き起こされたものだから全然種類が違うという意見が飛んできそうだが、それでは自然と人間の境界線ってどこなのだろう。人間だってただの自然の一部ではないか。今の地球温暖化は人間によるものだから種類が違うという意見は、人間というものが他の自然とは異なる特別な存在だという傲慢さが見え隠れしている主張である。人間だって基本行動としては生まれて、食べて、寝て、性行為して、死んでいくだけなのだから、他の動物と全く同じで変わらない。「氷期」と「間氷期」が自然によるものだというのなら、地球温暖化だって人間という自然によるものと考えるのが当然ではないだろうか。
・異常気象よりも異常な人間の思考回路
地球の気温が変わってしまうという地球にとってとても自然な流れが、どうして人間界では「地球温暖化」などという環境”問題”だと見なされてしまうのだろうか。どうして彼らは、これは自然な流れだと気温の変化を受け入れることが難しいのだろう。
それは人間が変化というものに敏感に恐怖を抱く生き物だからではないだろうか。人間というものは「いつもと違う」ということにとてもうるさく反応する。いつもの年よりも今年の冬は寒いだとか、いつもの年よりも雨の量が少ないだとか、いつもの年よりも台風がたくさん来るだとか、とにかく普段通りでないといちいち心配して不安になっている。
しかしそんなにいつもいつも同じような状態が続くだろうか。地球だって常に変化しながら歩みを進んでいるのだから、いつもとは違う気候が訪れることなんて当然ではないだろうか。むしろ人間はどうして常に移り変わっていくこの世界において、毎年毎年同じような気候が続くと信じ込んでいるのだろうか。そっちの思考回路の方が、異常気象よりも異常なものではないだろうか。
・変化を恐れ、不変にしがみつく人間
地球が今と違うような状態になったら、今までと同じように平穏に暮らすことができなくなるかもしれない。安定した生活が送れなくなってしまうかもしれない。繰り返しでゆるされる呑気な毎日が乱されるかもしれない。いつまでも変化なく、安定し、同じように生きたいという人間の思いが膨張し、とても自然な「地球の変化」を憎むべき敵と見なし、問題視し、解決すべき課題だとのたうちまわる。水の激流もなく、陸の高低差もなく、気候の変化も激しくない平野へと山脈から逃げ込んだ人間たちが都会を形成したように、まさにそのようにして人間というものはいつの世でも平穏を求める。
しかし常に移り変わる”無常”で満たされているこの世において、変化しない世界なんて完全に誤った幻想ではないだろうか。変化しない平穏でのどかな世界なんてありはしない。それは人生をちょっと生きれば、常に移り変わっている自分や世界を見つめて気づくことではないだろか。またその上で学びを深めれば、日本列島の形だって昔から常に変化してきたことさえ知ることができる。地球温暖化で日本列島の形が変わっても、それは地球からすれば通常通りの営みなのだ。それなのに人はどうして、不変にしがみつくのだろうか。
変化した世界に適応するためにはものすごいエネルギーが必要だし、確かに疲れる。不変なままならば他のことに使えたエネルギーを、自らの生命を環境に適応させるために無駄に消費してしまうかもしれない。しかし不変という幻想にしがみつき、変化を憎むべき敵と見なしてうろたえ攻撃するエネルギーと、変化を自然な営みだと素直に受け入れ適応するために努力するためのエネルギーと、どちらが人間としてふさわしい消費の仕方だろうか。
・変化を恐れる人間、変化を促進する人間
変化を恐れる種類の人間たちは、変化を促進する人間たちを憎む。変化を望む人間たちは、変化させない人間たちを憎む。そのようにして憎み合い、攻撃し合いながら、結局は少しずつ人の世の中が変化する。「変化しない」ということなど、無常のこの世においてありえない幻想だからだ。
同じようにして変化を恐れる種類の人間たちは、変化する地球を憎み始める。しかしこれは変化を促進する人間たちを憎む行為よりも、虚しく無為な行為だ。地球が変化することを憎むことは、例えば人間が年をとるという自然な現象に対して攻撃をしかけようとするのと同じくらい無益で不自然だ。どんなに年をとるという自然現象を人間が悪もうとも、年をとるという現象は決して止まりはしないし、それは仕方なく受け入れるべき当然の運命だ。
・「地球温暖化」が泣いている
地球の正常な状態としての「地球温暖化」が、どうしてこんなにも世の中で存在感を増しているのだろうか。それは地球温暖化をどうにかして未来の子供たちを守りたいという純粋な思いよりも、地球温暖化というものを利用して金を稼ぎ、利益を得ようとする企みが世の中に氾濫しているからではないだろうか。
「地球温暖化のことを考えています」「地球環境に配慮しています」とでも言ってしまえば、自らを”正しい存在”として簡単にアピールできる。自分は素晴らしい人間です、自分は常識的な存在です、自分は思慮深い企業ですと、「地球温暖化」を通して思い込ませることができる。そのようなポジティブなイメージを利用して世の中を上手に渡っていくための、「地球温暖化」は都合のよい道具に過ぎないのではないだろうか。
ぼくは「地球温暖化のことを考えています」「地球環境に配慮しています」などと言ってくる人を信用できない。それは地球の自然な変化というものを、自らが素晴らしい人間だと見せかけるために敢えて敵だと設定してくるからだ。自然な変化を受け入れることをせずに憎むべき敵だと見なし、自分が正しい人間となるためにその憎しみを世界へと拡散し、世渡りに利用する。彼らは守られた正しさを振りかざしながら、憎むべきものではないものを憎めと世の中に発信し、利益を得ているのではないだろうか。
そんなことをして「地球温暖化」という言葉が可哀想だ。ただの自然現象なのに、誰もが受け入れるべき当たり前の存在なのに、人間が自分自身を正しい存在だと世間に思い込ませたいばかりに、「地球温暖化」を憎むべき敵、消滅させるべき悪者だと設定し、浸透させ、都合のよい道具として使い捨てられる。そんなことをして「地球温暖化」という言葉が可哀想だ。きっと「地球温暖化」という言葉に心があるなら、泣いているのではないだろうか。人間の欲望のために植え付けられた誤解があまりに醜くて、泣いているのではないだろうか。
・この世の無常を示すブッダの遺言
「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させなさい」